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母との思い出-高岡の大学受験指導塾チェリー・ブロッサム

9月8日
読了時間: 12分
激動の2か月が過ぎようとしている・・・。
激動の2か月が過ぎようとしている・・・。

ちょうど二か月ちょっと前に母が亡くなった。

もうそれは、本当に呆気ないとも言えるし、あっさりとも言えるし、誰にも迷惑かけずにさっきまで普通に元気にしていたのに、である。

そもそも私の祖父母に遡ってもそういう家系である。


私が死ぬ瞬間まで働いていたい・・・。


と話したら、お隣りの旦那さんは、


そんなわけにいくかいな・・・。


と笑っておられた。

その方は脳梗塞を起こされたそうで、少しお身体が不自由だったこともおありだからかもしれない。


私の祖父母は4人とも、本当に呆気なく旅立ったのである。

要するに、闘病生活がなかったのである。

だから、きっと私もそうであろうと思っている。


初任の高校が、いろいろ教えてくださる方がいらして、T大学をお出になった後で医学博士になられたというようなとんでもない、知の巨人みたいな方がおられて、医学から哲学から、文学、それも詩学など、短歌などの添削もされて、それはもうとんでもない方がいらした。

その方によると、何でも、周りに迷惑を掛けずにあっさりとこの世から旅立つというのはよほど、精神を律していないとできないということらしい。

だからその先生も、晩年のお母さまが、先生に依存ばかりしているのではなくて、最後まで自分生活をきちんと自分でできる範囲でできるようにとしっかりとけじめをつけておられたということである。


聞きかじって、ほんの少し耳にしただけのことである。

それもその人から聞いたのではなくて間接的に。


母は昔から、どちらかというと依存するタイプだった。

一目見て、教師に見られがちな、ちょっと知的に見えるタイプで、最近でこそどこに言っても教師業だとわかられてしまう私とは違って、私が若い頃は、母の方が教師に見えたものだった。

娘の私から見ても、相当な別嬪さんだったと思う。

で、相手によってもあるけれど、


ハッキリ言わな・・・。


と言うこともよくあって、結構口調もはっきりという面もあるくせに、何かに誰かに相談しないではおれないみたいである。


まあ、母が来てからというもの、言いたくないことを言わなければならないという場面に何度遭遇したことだったろうか?

私は誰かの専門性に入り込むことがあまり好きではない。

というのも、私が良く知っていることについて、生半可に目の前で語られるときのかたはらいたしな感じを知っているので、それをしたくないのである。


私の場合、ピアノの先生はやってしまっていただろうと思うことがある。

私の場合、大人数のバンドに所属していたこともあり、むしろピアノだけというよりも、オーケストラとかブラスバンドとかの方面を知っていたりする。

ちゃんとピアノ科をお出になった先生方に、何を申し上げていたかと思うと今でも赤面ものである。

自分が生徒の時に何か言うことはなくても、わが子の時には、どうせ生意気の虫が出ていたに違いない。


ちょっと弾くくらいで、本当にどうかしていたなと昔を思い出しては、本当に穴があったら入りたいような気分になることがある。

めちゃくちゃ事情通の人に、生半可なことを聞くことがめちゃくちゃ嫌なのである。


母は私に到底判断できないことを、


○○は~やねんけど、これはどういうことやろか?


わたしなら見過ごすところを、それも自分の身体について相当関心が行くタイプのようで(これは昔から。)、いつも返答に困るのである。

母が来て、聞かれなかったらそれで別にどうってことないけれど、聞かれたら、どうにかしなければならないということの多さに気付いた。


特に身体関係のことは、本当にわからない。

それに、私なら、そのうち治るという気持ちでいたら、もともと丈夫なせいもあって、そのままであることが、母に質問されると、いきなり解決すべき問題となる。

そこで私は素人ながら、その場でお聞きするのだと、頭がおかしくなりそうなので、メモを作成していた。

作成しながら、なんだか迷惑なことをしている人のような気がしていた。


で、致し方なく、何かがわかっているみたいな人みたいなメモをお渡しして、先生にお尋ねすることになる。


正直、これが結構しんどかった。

先生によってはいきなり気分を悪くされた方もいらした。


これを四年間あちこちでやって来た。

母に言わせると、


あの人、気が小さそうな人やわ。


と私の気持ちも考えず言ってのけていた。


相手の性格もあるし、その人が大事にしているものもあって、それは相手にも合わせなければならない。

でも、母は正しければそれでいいのである。


なんでも言ってそうな私と、如何にも言わなさそうな母。


実は逆転していることはよくあった。

周りは誤解したまま、うるさくて細かい娘になっているのかもしれない。


そういう理不尽さをあれこれ経験しながら、とりあえず母はあっさりと旅立って行ったのである。


そう、お昼まで本当に元気そうにしていた母は、まるでお昼寝しているかのような、言ってみれば夕寝の状態で旅立って行ったのである。

もうもう、それはそれはきれいなお顔で。

本人は常々、


ぽっくり死ねたらいいなあ。


と叔母たちと話していたらしい。私にも言っていた。

割とプライドの高いタイプだから、さんざん世話されていても世話されていることを認めることができなかった。

これでベッドから起き上がれない状態になどなれば、本人としては相当辛いだろうことは想像できたのであろう。


そうそう、一緒に暮らし始めた時は、介護の定義から始まって、「ただ」一緒に住んでいる「だけ」の私は「介護しているわけではない」と言い張っていた。

そこにケアマネさんと一緒に介護というものについて考え、私の状態は介護だということを納得した。


私もネットで調べ始めたこともあった。

これだけ大変なことが介護でないとはどういうことか・・・?

というわけである。


要するに、誰かの世話になっているということが認められなかったのであろう。

だから、私に、○○させられているという言葉も出ていたという話である。

なにか、私に対して貢献していると思えなければならなかったらしく、一日にしていることを、妹や叔母と話していても、相当にオーバーに表現していたらしい。ということを後で知って愕然としてみたり・・・。


それをまたまことしやかに、いかにも真実であるかのように耳に入って来るから人間というものは不思議である。


かつて、思ったことがある。

本当に大変なことをしてきた人、あるいは大変な状況を通ってきた人って、割と人が何をしているのかということに敏感である。

でも、何もしていない人の方が、と言うかあまり何も一生懸命してきた人でない場合、誰かのしていることも低く見積もるようである。


学生時代にやっていたことについて、ご自分たちはあまり何もしていない人は、あっさりと人のしていることを非難する。でも、何かを一生懸命にやって、何事かを成し遂げている人ほど、相手のしていることに敏感である。


先日、整形外科でご近所のよくしてくださる年配の奥様にお会いした。


お互いの整形で掛かっているところについてのお話しの後で、母のことを話した。


そしたら、


一生懸命やっておられたから、そう言えることが素晴らしい!


と言っていただけた。

私は母のことに関しては全く後悔をしていない。


あっちこっち本当にたくさん連れて行ったし、お食事にも温泉にもお買い物にも、そしていろいろな富山の素敵な風景を見せにも連れて行った。


よく私が笑って言ったのは、


老い先短くて、来年生きてるかどうかわからへんから、行っとこう!


と鬼のような表現で、その時はそうなるとも思わずに、初夏の山々に連れて行ってついでに温泉に行ってみたり、富山市で素敵だったと思っていたレストランに連れて行っておいたり、その時々に思いつくことはしておいた。

金沢のデパートで北海道展があるということで、海鮮丼を買ってきて、二人で食べたこともあるし、新婚の時によくドライブに行った卯辰山に、ふもとにあるイオンでお弁当を買って食べてきたこともある。

富山のおいしいパン屋さんに何度も言って、母が気に入った格安のサンドイッチを買って、とても一人では食べられないので二人で分けて、後はちょっと甘いものを足して、心地よい風に吹かれながら、気分よく食べていたこともある。


そうそう、思い立ってちょうど昨年の今頃かな。魚津の朝市にも連れて行った。

お寿司を買って、帰りにイチジクのお店に寄ってきたりして、本当に日曜日の朝早くにドライブしたこともあった。

それに、今年は朝日町の花の四重奏を見せてあげようと思って、調べたらちゃんと駐車場を予約いておかなければならず、でも長く微熱を出していて、日曜日はお休みしなくてはならず、二度ほどスルーしてしまった。母は、


また来年行けばいいやん。


と言っていたが、ちょっと桜が終わっていた頃だったけれど、高速でフラッと出掛け、その途中で寄ったサービスエリアで初めて食べたブラックラーメンを母はことのほか気に入り(気に入らないと二度と行かない人である。)、


また行きたい!


と言っていたが、その帰りに、朝日町に寄って来た。


桜があるのとないのとでは大違いや・・・。


と憎たらしいことを言ったが、それにしても美しくて喜んでいた。

ついでに高速から見えていた、桜並木があったので、下道を通ってその桜並木を探すドライブに行った。


そうそう、上市町の神田地区に蓮の花が咲いているというのをフェイスブック友達に教えていただいて、蓮を見に行ったこともあった。

父の法要のために、永平寺にお参りに行った時には、蓮はな温泉に泊まって、たくさんのきれいな蓮を見ても来た。

母が来て、私が母に見せたさに、初めて蓮の花を見ることになった。


漢文の世界で、本当によく出てくる蓮の花である。

泥の中からよくあんな気品ある姿のお花が咲くものだと、感心することしきりである。


母に富士山を見せてあげたくて、昨年の今頃は河口湖に行った。

身延山久遠寺に参詣したが、母はことのほかそのお寺の雰囲気が気にいて、


また行きたい。死ぬまでにもう一回行っておきたい。


と言っていた。

大らかなお寺だった。

私ときたら、木魚とはちょっと違う、シロフォンのめちゃくちゃ高い音を一音叩いているようなめちゃくちゃリズミカルな音がするので、いったいどんな修行をされているのだろう?と音のありかを知るためにお寺をぐるぐると見て回り、とうとう音のする場所を突き止めてみると、なんとお坊様がお一人で、その、木魚ではない、楽器というのかを、右手で打楽器奏者も真っ青な、とんでもないリズムを延々とお経をお読みになりながら、叩かれていたのであった。


私などにお寺に行かせて、着いて回らされたら溜まったものではないだろうに、母は楽しそうだった。


河口湖に到着しても、


高齢の母を連れていきます。富士山を見るのは最後になるかもしれないので、できたら富士山が見えるお部屋を・・・。


と伝えておいたら、その通り、とんでもないファミリールームの窓から良い景色が見えた。

だが、一泊増やした母と私が最後の朝に見えたのは、まがうことなき富士山だった。

その日まで富士山が雲に隠れていて、それが藤さんだとは気づかなかったのである。

これも神様からのプレゼントのような話であった。


母は河口湖がことのほか気に入って、


山梨のイメージが変わった!


と言って喜んでいた。



もう一つ、新倉浅間神社にもお参りした。なんでも桜の名所ということで党のある展望台から見た富士山が素晴らしいのだという。


就社上の伯父さんと仲良くなって、下の神社だけで帰ってきたら、


やっぱりさあ、上まで行かなきゃあさあ。


と説得され、


これが電動だったらいいんだけどなあ。


と言いながら、勇気をもらって、私がシルバーカーを弾いて、母が一生懸命に押して、なんと咲くやこの花階段を二人で登ることができた。

当然にお嬢様は自信をお付けになり、喜ぶことったらありゃしない。母はその実歩かなければならない人であった。リハビリである。


山梨が、山梨が、こんなに発展したところだなんて!


すっかり山梨びいきになってしまっている。


さて、駐車場でおじさんは、私の顔をジーッとご覧になって、


ああ、嫁さんじゃあないな。娘だな。だって、嫁さんじゃあここまでしてくれないもの・・・。


と言われ、いつものように何をしてもお礼を言われたためしのない私は、


ああ、わたしってやっぱり良くやっていたのね・・・。


とちょっと涙ぐんでしまったりする。京都にいらっしゃる知性の権化であるフェイスブック友達のある方を思い出すお顔立ちであった。


母が一人暮らししていたのではきっとできなかったであろう体験を、いろいろさせてあげられたと思う。

でもわがままなお嬢様は決して満足なさらないのである。


ということで砂漠に水を撒いているような、報われなさの母の介護であったが、そして最近、


私、4年間仕事してなかったから・・・。


と言ってしまうほど大変でもあったが、こうして書いてみれば、あっちこっち本当に良く連れて行ったものである。


もしかしたら行けるかなあと思たのは、母が来ることになった半年前だったかに、母のいる所のほど近くに六甲の温泉があったので、連れて行ってあげて、ついでに最終日の朝、


そうだ!倉敷に行こう!


ということになって、母は信じられないという顔をしたが、なんと言っても美術館好きの私たちである。

母は行ったことがあったが、当時まだ私は大原美術館に行ったことがなく、高岡美術館に「児島虎次郎展」が開催されてからことさら大原美術館に行きたいという思いが強まっていたが、その後何年も行く機会がなかったのである。


倉敷が好きな母もたいそう喜んで、


あの絵、知ってる!


と言ってはしゃいでいた。


文学作品の中で、あるいはどこかの美術館で、あるいは何かの本で、お目に掛かった作品がたくさんあった。


数年後、原田マハの、『楽園のカンヴァス』の冒頭の場面で、


アッ!大原美術館だ!


とその場面がありありと感じられたこともあった。



こうして書いていると、この二か月、母とのことを思い出して、それに外野のあれこれを聞いて、なんだか複雑な気分にもなり、


私って、なんて恵まれない娘なの?


など年甲斐もなくおセンチになっていたのだけれど、こうして楽しかった時を思い出すと、わりに楽しいことを共にたくさんしてきたのだなあということがわかる。


周りはいろいろなことを言うだろう。


でも、母がいなくなって、そして7月に起こした鍵盤断裂による入院と手術から戻ってみて、母のいない生活をしてみると、35年前には新参者だった私が、4年間否応なく関西出身者であることを意識させられていたのに、なんともこの土地に自分が馴染んでいるということに気付いてしまう。

どこか母を通してこの4年は世界を見ていたような気がする。

でも、ちゃんと私はここにいるではないか!?








 
 
 

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