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大学受験指導の面白さー「自分の機嫌をとる方法」ついでのリフレーミング 高岡の大学受験個別指導塾チェリー・ブロッサム

9月10日
読了時間: 8分
気分転換の仕方を知ることは大事。受験の中で自分の機嫌を取ることは大事。
気分転換の仕方を知ることは大事。受験の中で自分の機嫌を取ることは大事。

今日、なぜかリハビリの先生と話していて、世渡り上手とか、器用であるとか、運がいいとかいう話になって、世渡り上手ではないし、器用ではないけど運だけはいいなと話していた。


それよりも、そういうことよりも、若い頃から順応性だけは褒められてきたし、それに自分で自分の機嫌を取るのは相当にうまいとは思う。

それは生徒に指摘されるくらいだから本当にそうなのだろう。

ついでに、もっと得意なのは、意味づけである。


人生だから、ときに割に合わない思いをしたり、なんで私だけ?と思いたくなるような出来事に遭遇することはある。

でも、おそらくはそういうことって、思い悩んでいる時間がもったいないと思う。

年を重ねたからだと思うし、経験のせいであるのもわかっているのだけれど、よそから見て、羨ましいと思うほどの状況にいらっしゃる方でも、その内実はたいへんということもよくある話で、言ってみれば何を羨ましがっていいのかもわからない。

そういう意味では人生というものはある意味平等なのかもしれない。


ということで、本当に羨ましがっていいものを提示してくれたりすれば羨ましがりもするが、自分のことでいつも精一杯な私はそこまで人を見つめる気にもなれない。仕事上、生徒さんのことは結構見てはいるけれど。


ということで、わりに集団生活に馴染むのは早いかもしれない。

でも流されることは絶対にできない。

どうして今まで生きて来れたのか不思議である。

ただ、困ったことが起こったときに、その困ったことを評価し直すことが得意なのである。


それは、まるでフランクルのようである。


人生に意味などない。人生が意味を問うている。


だから、勝手に意味をつけてもいいのである。


たとえば、この夏に母を見送った直後に、私は鍵盤断裂を起こし、手術・入院することになった。

意外だったし、そもそも自分が全身麻酔をするような手術をすることになるだろうとは、思ったことがなかった。

医療保険とかにはきっと結構な条件を付けてもいるのだろうけれど、それは入っておかなければならないからそのときな結構考えていたとしても、それが実際に起こるとも思っていないのである。


で、いきなり転んで、なんやら右腕が痛んで、何かが起こっているような気がしてネットで調べたら手術するのかもしれないけれど骨は異常ないしなと思っていた。


で、完全に腱が切れているということがわかり、で、手術するのが最善となれば、先生の目の前で頭がフル回転し、その次の瞬間には、


一番早くていつできますか?


と訊ねている。

で、その次には、で、いつごろ帰れるかという話までして、通常は2週間のところをどうしても10日で帰りたい旨を話して、目標が10日で帰ることになった。


そうとなれば、仕事のない、しかもだれかの面倒を見ることもない10日は私だけのもの。

言ってみれば休暇である。

それにその前日の夜遅くまで指導をしている私にとって、手術をすることについて恐怖を感じている時間もない。

とにかく何とか終わらせなければならないという点で言うと、言ってみればただの行事である。

うまくいくかそうでないかは、自分の身体と先生方との相性である。


よく初任の学校で言われたのは、


先生方だって人間である。朝夫婦喧嘩をしてきた人そうでない日では、やっぱり違うというもの。扱いやすい患者になって、最高の日になるような自分になりなさい。そのために日常のあり方が大事。


それは子どもを先生にお預けする心構えにも通じるもので、運というか、タイミングというか、そういうものは自分で引き寄せるものだということを教えてもらった。


だから、無用な心配は良くない。全部先生方にお預けするつもりで、全幅の信頼でお任せするのが良い。


というのも子育てにも応用してきた。

子どものことを心配するのは良くない。

子どもを信じて目の前にあることに集中すること。

とはいえ、第一子の娘の場合は、そんなこと言われたって、心配で心配で仕方がなかった。同性というのもあるだろう。


学校で嫌な思いをしていないか、先生とはうまくやれているか。

どうしようもないことを、娘が経験すると思ったら、いてもたってもおられないような気持ちも経験した。


自分のことなら、何とでもなる。

でも、こと子どものことになると、心がけていてもそうはなかなかいかない。


そうそう、息子の担任の先生の結婚式にクラスの生徒と親でお祝いに出掛けたことがあった。

思わず花嫁姿の先生を見て、


これも先生方にとっては行事でしかないんだろうな。


と思ってしまったこともある。

もう少し夢を描いて、この日のためにとか思えないのだろうか?本当に良くない私?


私の場合は、その行事でしかない結婚式の後、思い切り生活が変わり、学校図書館で忙しくしている時間に、生協さんが来るというので集合住宅でみんなで生協さんのために集まって、その後誰かが注文していたうまい棒を一緒に階段で食べていた時に、なんとも違和感を覚え、


ああ、今頃は・・・。


と思ったものである。


近くの小学校の一年生を連れた新任の男の先生の初々しい姿を見て、新婚だというのに、羨ましくて泣けてきたこともあった。(笑)


でも、要するにその頃も今の仕事に本当に役に立っている。自分の子育てのとんでもない経験も。


それに、子どもって育つようにしか育たない。

スイカはスイカの種にしかならないし、バラの花はバラの苗からしか育たない。


でも、別にバラがスイカにならなくたって、スイカにバラが成らなくたっていいではないか?


それに、その人その人の人生があるのである。


それに、うまくいかないと思っていたときが、その実その後の人生にめちゃくちゃ生きてくるということもある。

私で言えば、高2のもうドラム叩くしかなかった頃、数学の先生に追いかけまわされ、単純にやっている時間も精神的余裕もなかっただけで、高3になって引退すればめでたく数学は得意科目で得点源となるし、今は当時やってもいなかった問題を読み解くのはとっても得意である。

少なくとも高岡高校の生徒さんから数学を問われて、答えられるくらいにはできる。


でも、できなかったときの気持ちはわかる。


数学って、この-1はどういう意味なのか?という小さなことを解明することが大事なのである。

たかが-1、されど-Ⅰである。


それがわからないと次に進めないし、それがわかってこそなのである。

でも何を言っているのかがわかれば、こんなに楽しい教科はない。


ということで最近は数学をやっていればご機嫌な私である。


で、国語科教諭になって、その後予備校講師をして、今は自分の教室を主宰していて、いろんな教科を指導させてもらっていて、その当時のわからなさが本当にありがたいということがある。


私が数学が得意な教師でなくてよかったとさえ思う。というか得意でない時期があってよかったと思うのである。


今となってはなんで?と思うし、数学ほど面白い教科はない。

それに、国語が本当に得意な人は数学的な要素を持っていると思うし、国語ができてこその数学であるとも思っている。

国語と数学、国語と物理も絶対に関連性がある。


ということで、自分の人生に起こったことなんか、勝手に自分で解釈を変えてしまえばいいのである。


私は高3の時、一度担任の先生をムッとさせたことがあった。


第一志望の大学しか受験しないと言って、


じゃあもし合格しなかったら?


と訊かれて、


浪人します。


と話したら、


こんな若いときに受験勉強みたいな狭い勉強に時間を取るのは良くない。


とおっしゃって、結局滑り止めも受けることになった。


その時に、音楽をやりたいからというのが理由としてあった。

他の先生方もそうだったけれど、部活の激しい学校で、大学は本来学問をしに行くものというのが本流だと、あまりに本当なことをおっしゃっていた。


本当にそこまで音楽が好きだったのか?


と言われれば、その当時の自分の自信がなかったから、まだ幾分何とかやっていけた音楽の世界を通して人の中にいようとしていたという方が正しい。


今もそうであるが、もっと偏差値の高い大学に行きたかったとかいうレベルではなくて、もともと勉強そのものが好きで、受験勉強というものに余り適性のないーつまりは点数を取りに行くというだけのことはあまり好きでない私にとっては、音楽をやっている時間があったら、もっと受験に関係のない、物理や化学や数Ⅲの勉強をしておきたかったという方が大きい。

もっと知りたい。もっとその世界を知りたかったなと思うのである。


でも、一方学校現場にいた私が、その勉強をしていたよりも、部活に励み、人の中でもまれてきたその時間こそが粘り強さを身に着けさせてくれたし、ある意味理不尽さというものを経験することになり、それが良いとか悪いとかは別にしていろいろその後に必要なことを勉強させてもらうことになったと思う。

ただの真面目で、いつもいい点数を取って、誰にも非難されない生活をしていたのではその後の仕事はできなかっただろうと思う。

少なくとも教師という仕事を形は変わったけれど、続けることができなかったろうと思う。


だから、後で考えたら大抵のことってつじつまが合っていると思う。

周りはいろいろ言うかもしれないけど。

周りは何とでも言えるけど。


それにどんな生き方をしていても、人は何でも言う。


ただ言える。

自分の人生を一生懸命生きている人は、人の一生懸命もちゃんと認めるものだと思う。




 
 
 

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