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生意気な態度の向こうにあるものを求めて



時に生意気な態度に会う。

そしてそのことをその相手に伝えるよりも、ついその向こうにある気持ちを知ろうとして、時にその気持ちに添った行動をとろうとしてしまう。

でも、そのことが相手に、どこに行ってもそういうことが通用すると思わせてはその相手の成長を阻害することになる。

と最近気付いた。


私自身は砥石のようにその相手から人間的成長をさせてもらえるのかもしれない。

でも、そしたら私は今よりもますます偉く?なるけれど、相手はどうなるのだろうか?


教師は咎めてはならない仕事である。

でも、褒めてばかりで注意しないのは指導放棄である。

ということに最近気付いた。


私はええ格好しいである。

結構関西人よろしく、この人はこんなもんだろう・・・、位思っているに違いない。

それなのに、嫁に来た当初から、何かに、


一緒やー。おなじやー。


と言われ慣れてきたからか、自分がそれまで培ってきたものまで否定しなければいけなかったのだと思う。


それに、私が勤めた学校には、そちらのお局めいた奥様がいらして、あれこれ注意をされた。

教師としてよりも、その人のお眼鏡にかなうかどうかということが最も大事な価値観として対された。

だから、その方の認めないことは言えなかったのである。


相手にしない、とかいう問題とは全く別次元の話である。

良くないことは良くないこととちゃんと言わなければならない。


私はそこをしっかり言えて来たのか?

言えてきました。男子にはね。


でも、女子については人間関係的にこじれたら面倒くさいとでも思っているのか、なかなか言えない。

心理的に何を言われるか分かったものではない。


とか思っていそう。

とんでもない教師だな、こいつ。


などと、卒業生と話しながら、意外に冷徹なところもあるのではないか?と思っている。

そうそう怒らない仏様のような人間でなんかない。


その証拠に、男子には思い切り怒るし、時にはお父様とやり合ったこともある。

正直、経験論的に、女性の方が偉いよな、と思う節もあるくせに、その実どこかで女性には手加減しているのではないか?というどこか男尊女卑的なところがあるのも実は認めている。


女は面倒くさいのよね!


と言いながら、


男はもっと面倒くさいけどね!


と思っているということは、要するに、人間というのは私も含めて面倒くさいということなのだと思う。


その面倒くさい人間相手に、時にため息をつきながらあれこれちょっとずつ言っていくのが教育と言うものである。

できれば言葉でよりも行動で示すのがよろしい。


とは言いながら、『実るほど頭を垂るる稲穂かな』ではないが、年配者は、偉い人ほど普通であり、ある意味の謙虚だということを知っている。だから自分も至らぬながらできるだけそうでありたいと努める。


大阪と東京の違いを読んだことがある。


東京だと、


あの先生、偉いと言ってもああいうことをする(例えば出版社に自分の原稿をついでがあったからと言って持って行ってあげる。)のだから大したことはないのだろう。


という解釈になるところが、大阪では(経験上、京都はもっとすごい。)、


あんな偉い先生やのに、そんなことしてくれはるやなんて、ほんま凄い人やなあ・・・。


となるそうである。


そこで、私が必要以上に対等であろうとすると、おそらくは、東京的な解釈を試みられるのではないだろうか?

そういうことをするからには事情があるのだろう、とか、あるいは先生と言っても、そうそう大したことはないだろう、とか?


そうそう、かつてある学校で指導していた生徒さんのお母さまと話していて、


先生は生徒を対等に扱ってくれる、って、うちの子言ってたわ・・・。


とのことだった。

もしかしたら行き過ぎているのだろうか?

生意気な態度を取らせるには取らせるだけの責任があるのではないだろうか?


などと考えている今日この頃である(何を今更?(笑))


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