久しぶりのカフェー高岡の大学受験個別指導塾チェリー・ブロッサム
- 14 分前
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今日は母と私の大きな病院の受診の日。
受験指導の時はあまりに忙し過ぎて、もう、病院に行くのが気分転換になっていたのだということに今更気づくありさま。
病院から保護者の方と連絡していたのを思い出す。
こと人の人生が肩に懸かるという受験指導。
どんな条件であったとしてもひとたびお引き受けしたら、きちんと自分の仕事を全うせねばならない。
そういう意味では、今年ほど、周りの条件に左右されず、人の姿にも振り回されることなく、私が私の仕事を全うした年はなかったと思う。
私の修行の面もあったので。
徳を積むという言葉があるが、もう擦り切れそうになりながらも、全部の指導はちゃんとやった!と思える。
相手がどういう態度であろうと、どれほど誠実でないと思おうと、それに、それは違うやろと言うことがあっても、とにかく受験が終わるまで、私の言動でどうのこうのと思われないように、というのも誰かのせいにするという逃げ場を与えてしまうことになると思ったので、気になることも全員について、それは保護者の方についてもであるが、受験が終わるまでは言いたいことや言わなければならないことはストップしていた。
人には格というものがある。
すべての人が同じ格で生きているわけではないので、当然に話が通じないこともあれば、何言ってるの?ということもある。
でも、とりあえずそういうことも含めて、言えることも言えないこともあった。
当たり前だけれど、教育的観点からも、言わなければならないことであっても、それを聞いたからと言い訳する余地を残してはいけないので、とにかく受験が終わるまでは言わないことにしていた。
そんな話も病院からしていたのを思い出す。
帰りに久しぶりに氷見に行った。


氷見にはお気に入りの古本屋さんがある。昨年からたくさん買って来ているが、どうも読めたためしがなくて・・・。
でも、昨日から読んでいるアーサー・ウェイリーの『白楽天』はなぜか相当に鋭く頭に入ってくる。
前回読んだ時には読めていなかったところがとんでもなくはっきりと史実として?あるいは白居易自身の人生置いての出来事として私の中に入ってくる。
ああ、本が読みたいと何度思ったことだろうか?
病院の待合で一時ばかり本を読んで・・・、ということを繰り返していたが、そんな生活の中で、いつしか自分の中の家庭人の部分が多くなってしまって、どんどん講師の自分が削られてはいなかったか?
と思い、
この四年は仕事していませんでした!
と発言してみたら、
えええ?そんな風には思えませんよ!
と言われるが、自覚があるのだから仕方がない。
お前は仕事人として甘えてはいないか?
と先日卒業生が来てくれた時に反省した。
それはそれで自分のメンテなどということであれば、それは楽しい生活をしていた。
ドライブにもよく行った。クリニックや病院にもマメに行った。
でもでもでも、本を読んでいない。
それに、生徒に、それは違うということをきちんと言えていたのか?
そんなこんなを思いながら、今私が、春期講習を控えながら、どうすればすぐに癒されるのか?と思い、思い付いたのが、カフェに行くことだった。
ビジネスのお師匠たちは、皆カフェに行ってるか?とおっしゃる。
カフェに行く。出張に行く。
そうしてビジネス的アイディアが湧いてくる。
私なら、指導の形や、どうすれば皆様にとっていい指導になるのか?ということなど。
で、以前から相当に行きたいと思っていながら行けてはいなかったアミダカフェに行ってみた。
ご近所の方が、そのカフェラテが素敵だと話しておられたのに、お隣りの大仏さんには毎月お参りに行っているというのに、いつも素通りだった。
で、初めて入る店内にはゆるやかに音楽が流れていて、その中でカフェラテをいただいて、私は相当なゆるーい気分になった。
主婦でも代表でも講師でもない時間。
ゆるやかな音楽が身体に沁みていく。
ほんの数十分だった。
なぜなら教室に届く荷物のことを思い出したので、急遽教室に帰ることになったから。
コーヒー豆を買いたかったけれど、選んでいる時間もなかったので、今回はパス。
コーヒー豆をどこかで買わなければならないのだけれど、今回はどうしようかな。
あああ、ブログに書かなければいけない素敵な話題を忘れていた。
でも、今日会った人の、私たちがしたことを喜んでおられる様子に、ちょっと励まされたことにして今日一日を終えよう。
ここのところ神経を遣うことが多すぎた。
教室自体のことではない。
教師として、塾の講師というよりも、もっと高度な教育として、違うやないか!?ということと内心闘っていたのである。
教育の本質を捨て去って、教師をすることなど、どこの現場であっても私にはどうしてもできない。。
子育てもそうだったけれど、どうしても私が一番大事にしてしまうのは、人として、誰かへの教育というものである。
伝わっていなかった。ああ、何も伝えられなかったと思ったとき、私は無力感にさいなまれる。
正直言って、そんなもの、合格したからということで終わりにできることじゃない。




















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