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なんであんな人と出会ってしまったのだろう?と思うことがあっても、それは必然だったりするわけで。


きれいごと大好きな私だし、あまりぶちぶちと愚痴ばかりを言いたくないけれど、しっかりお別れをしてみた挙句、なんであの出会いがあり、お付き合いがあったのだろう・・・?とその時間が惜しくもなり、そして自分のことを情けなく思うこともある。


かつて、師匠に当たる人が、

一緒に仕事するなら、この人が騙すなら仕方がない、と思える人としなさい、また、この人なら許せる、と思える人にしなさい、とよく言っていらした。

騙されたことがあるわけでもないけれども、いったい何をもってそんなことをおっしゃるのか不思議だったので、直接ご本人にお聞きしてみた。

その人が騙すなら、こちらにも何か過失があったと思えるか、その人がよっぽど困っていたんだな、と思える人と、という意味です。

とお答えになった。

私にはそんな人はいない。

もし騙されたら、なんでそんな人と、と思うだろうと思う。


それにその時間が惜しくもなるだろう。

私は、契約、というよりも、もっぱら私的な人間関係的なことを言っているのであるけれど、なんで、そんな人と一緒にいたのだろうか?なんで仲良くし、ある意味信じたのか?と思うだろう。


その先生と私を比べたら、話の端々で感じていたのだけれど、冷たく思えるその先生の方が私よりも温情家であり、温かく見える私の方がむしろいざとなったら冷たいだろうな、と思ったことがあった。

その方は、まあ、偉大な先生だから(世間での知名度は全く違うし、なんであんなに親しく話すことになり、私も身の程知らずな話し方をしていた理由もわからない。)、比べるのも申し訳ないけれど、周りから冷たい、冷たい、冷たく見える、と言われているし、ご自身でもおっしゃっているその方のどこが冷たいのかさっぱりわからなかった。

私の方が、その人と付き合っていたら、ほかにも影響が出る、この先良くない、と思ったら、一見冷たく思われるような切り方をするだろう。

今流行りの、いわゆる感情を持たないような人と出会ってしまった場合、それまでにどれほど感情的なやり取りがあろうとも、情ににほだされそうなことがあろうとも、感情に引っ張られそうになりながら、思い切り理性的に思考を使って、そこまで、ということにしてしまう。


出会う人もお付き合いも、その自分のステージに合わせてそうなっているものだ。

次に行ったとき、なんで?と後悔することがあったとしても、それはその時の出会いである。

何も自分だけが辛い思いをしたわけでもなく、相手あってのことである。

そこに金銭的なもの、あるいは金銭的なものでなくても実害めいたものがあればわかりやすいが、そうでなくても、人の心とお付き合いする教育の世界にいて、その後に影響がある場合は、やはりそこまで、となると思う。


先生と私を比べて、私は、ある意味妥協しないな、と思ったことがある。

先生は愛した異性を大事にされるだろう。

私は、そこまで、と思った人との付き合いをその後美化することもなく、なんでそんな無駄な時間を過ごしたのだろう?と考えるだろう。そういう経験はないものの。


その、経験値なく、出会ってしまった人とお付き合いするに至った自分を責めるだろう。

男女の区別なく。

でも、その時の自分がその出会いを呼び、そしてお付き合いすることになり、その時を過ごしたことになる。

もしそこに同情などがあったとしたら、それも自分の情に傾いた責任がある。


書きながら気づいた。

経験が人を賢くする。

愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ、とは言っても、経験から学ぶことは大きいし、何より実感がある。

次に行くときには、それが、その勘を鋭くしてくれているし、語る言葉も持っているだろうし。自分の身を守るすべにもなっていることだろう。

私はだいたい自分の経験を軽んじすぎる。

経験から学んで言葉になっていることを軽んじ、そんな経験をせざるを得なかった自分を責めてしまう。


それは多くは女性である。

そして、私は別れるときに、何人の女を泣かせてきたかしれないのである。

そんな時に泣くような男性は端っから付き合わないし・・・。(笑)

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