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学生時代


なんだか思い出してしまった。

自分の国語の授業について考えていた。

国語の授業で、演習中心というのは、まず無理だということに気付いて、本来の自分のスタイルで、これから、国語の指導を今までよりも、自分の色を出したものにしたいなあ、と考えていてのことである。

大学二回生の頃のこと。

「文学概論」という授業を履修していた。

いろいろな作品について、先生が、特に虚構性の問題について語っていかれる授業で、その面白さに、惹かれ、熱心に聴いていた。挙句、たくさん受講していた中で、結構な成績をいただくことになり、やはり相性のいい授業で、先生のものの考え方とも合うのだろうと思っていた。次の年、ほかの授業を取っていたにもかかわらず、もう単位を取ってしまった、その授業で、大好きな『カラマーゾフの兄弟』が取り上げられると知るや、その授業を聴きに行った。本当は、「中国文学概論」を取っていて、それはそれで面白かったのだけれど、「文学概論」の面白さには追いつかなかった。

ところが、周りの友人たちは、その、先生の面白い視点が語りつくされるその授業について、「粗筋ばっかりやん!」と言ったりするのである。頭は???

私、変わってるのん?

「近代文学研究会」などという、賢そうな会に入っている友人は、「文学好きの先輩は、みんなすごい授業やて言うてはるよ。」と慰めてくれた。それで、ちょっと安心することができた。

⒑枚のレポートをたった一晩、それもほかのレポートのほうに力を入れて、片手間で書いたレポートの評価が、とんでもなく良くてびっくりした。「読み応えのある文章になってます。」とコメントしてくださっていた。何百人の受講生のレポートをきちんと読んでいらっしゃって、そうして、揺れに揺れた、直筆でそんなコメントをもらって、すごく嬉しかった。

それが、参考文献など少しも読まず、ただ作品の印象から、自分で、一つの視点を中心にしたレポートで、こんなんでいいのん?たいそうなこと、何にも書いてないねんけど、というような文章だった。

そのときに、ああ、自分の感じていること、思っていることを一つ、追いかけるって、大切なことなんだなあ、難しそうなことを羅列するのではなくて、一つのことを掘り下げるって、大事なのか、と思った。

私の指導では、テキストになっている文章を、結構多角的に、一つのテーマを掘り下げて、取り扱う。

社会科学的な知識なども、あまりぞんざいに扱わず、現代文に必要だと思われれば、あれこれお話させていただく。それが、雑談としか思われないなら、それは受け止める側の問題であったりもする。だから、きちんと断ってお話をしていて、皆さんきちんとその辺のことを理解して通ってきてくださっている。

英語の講師をしていらっしゃるお母さまは、「国語なんて、先生のお話の中にいろいろあるんじゃない。」なんて、お子さんにお話してくださったりしている。よく、「私たちの時代は、国語は、楽しくて、勉強する教科じゃなかったのにねー。」とも言われる。

国語の授業が本当に重要になってきた時代である。

昔、自分自身の力で、深く読み込めた文章を、なかなか自分一人の力では読めなくなってきているようだ。

そんな、ご本人たちにとって、難解なだけ?の文章を、問題を解くためだけに、読まなければならないとしたら、寂しい。

本当は、国語はとっても面白い教科である。

なんでもない日常のお話から、いろいろ考えたり感じたりすることで、力の付いてくる教科である。

母国語の教科である国語の面白さを、ただの話、にはせずに、徹底的に考える投げかけとなる、授業で、伝えていきたいと思う。事柄ではない国語の授業をしていきたい。

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