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職業について


社会の底辺の仕事ランキング、などというものが話題になっているらしい。

ちょうど昨日、そのランキングを見ていたので、ははーっとなった。


正直、こういうものを作り出すことに何の意味があるのか?

分析してどうなるのか?

などと考えた。


私のお世話になっているところの、そのランキングに入っている仕事の方は、その仕事を一生懸命にされていて、それはプロ意識の強い方である。仕方なくなった、親に言われて・・・、となどとプロ意識もなく、底辺ではない仕事をやっているのなら、一生懸命にその仕事に従事している人の方がしあわせ、ということもあるだろう。


それに、しあわせの形なんてたくさんあるので、それを何のランキングやねん!?と思わされた面もある。

仮に、大学の先生になりたかったけど、仕方なく高校の教諭になって、こんな仕事・・・、と思っていたら、人生は開けないだろう(私のことではありません。別に研究者になろうとしていたわけではありません。)。


そういう相対的なことを、絶対的であるかのように、それはその業界的に仕方のないことではあろうけれど、そんなこと言ったら、言った人が、その職業でしか自分に自信がないみたいではないか。


私は、自分の職業でしか自分というものを見られなかったら寂しい。

私はまず私という人間を好きだとか嫌いだとか、何となく一緒にいたい、とかそうでないとか思ってほしいけれど、付加価値的な仕事の面や経歴で付き合う人は苦手である。

きれいごと過ぎるのもよくわかったうえでそう思う。


第一、自分に自信のある人は、仕事も学校も関係なく自信があるではないか・・・?


かつて精神科医に、学歴論について話す機会があったとき、

あのなあ、裸の自分に自信のない人間がブランドブランド言うみたいなもんで、その学歴に見合った中身のある人間は、学歴、学歴、言わへんねん。

つまり、裸の自分、というのが大事なんだと思った。


たぶん、裸の自分、というものを意識している人に、付加価値的に後からついてきたもので語ったとしたら、きっと寂しくなるのではないかな?


それから、一つの単純な仕事の中にこそ、仕事をするという喜びがある、ということを、こともあろうに、新任で勤めた学校関係で、東京大学の文学部出身の医学博士から教わった。

単純作業の大切さ、それを大事にすることの重要性をである。

コピー一つ上手にできない人が、あるいは、お客様へのお茶出し一つできない人が、大きな仕事はできない、とも言われた。

小さな仕事を丁寧にできる人が、きちんと仕事ができるのだと思う。


先日からお世話になっている病院の警備員さんは、本当に心遣いが細やかである。

脚が悪いから、お母さん、病院の玄関まで載せて行ってあげて・・・、とか、お母さん、歩ける?とか言いながら、私にどこに車を置いたらいいかを指示してくださる。また、駐車するときも、もう少し右、だとか左だとか、まっすぐバックして・・・、とか言ってくださる。

正直、これがプロの仕事。


かつて、物心ついてから青春時代を過ごした茨木市の、阪急総持寺駅の自転車置き場の管理人さんについて、地域のミニコミ誌に書かれていた記事に感動した。

そのおじさんは、露天の駐車場なので、雨が降ったときに、そこに置いた人が、すぐに乗れるように、スーパーのビニール袋をたくさん集めて、雨が降ったら、全部の自転車のサドルをそのビニール袋でくるんでおられたのだそうだ。

まさか仕事の中にそんなことまで含まれてなどいないだろう。

その記事を書かれた記者の人の感性にも私は感心した。


勝つことだけが人生かな?

確かに、学歴をつけて、それなりに「いい仕事」に就けば、社会的には貢献度は高くなる。

それがしあわせ度と相関性があるかどうかはわからない。


そんな心遣いにホッとする人がたくさんいる、いろんな人に小さなしあわせを分けてあげられる人は、きっとご自身がしあわせなのに違いない。

実は、実家の父もそういう心遣いのできる人だった。

会社を引退してから、もともと教育には関心があったのもあるのだろう。

幼稚園に手伝いに行っていた。

そのお手伝いが順番でなくなってからも、園児のために、イチゴやほかにもいろいろな苗を自分のお小遣いで買って、少々体調の悪いときにでも、畑を作りに行っていた。

たまたまその市の教育長をされていた先生が、私の小学校2年生の時の、ご専門が国語の先生で、幼稚園にある提案をされ、幼稚園についてのあることを父が任されそうになったらしい。そのときに、園長先生に、父のことを、自慢げに話されたそうである。

その先生に習った、「大きなかぶ」の授業の時の私の姿を覚えておられて、お電話した時にはそのお話をされた。

ああ、そうだったのか!?と思った。

娘が、絵本の読み聞かせをしても、あまり乗らない娘(それに対して息子は絵本を読んでやらないと寝なかった。)が、何やら、歩いているときに、「大きなったね!大きなったんだよね!」とだけ嬉しそうに言っていた。「大きなかぶ」が大好きだったのだ。

美学的に語れば、「大きなかぶ」や「てぶくろ」というのはそれは物語の何に美しさを感じるか?ということにつながっていくとは思う。

でも、どこかで、これおもしろいな、と思うところは似ているところもあるのかもしれない。



新任の学校で、模試の総監督をさせられたとき、一か月ほどもうほかの仕事ができなくなった。

如何に要領よく、手際よき仕上げるか?ということをシステム化した。

そのときに、初めて、資料を整えてホチキスで留めるというようなことがいかに大事なのかということがわかった。

小さな仕事をしっかりできる人は偉大である。


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