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仏教での最高の徳は、人が喜ぶ姿を見て、嬉しいと思うこと


初任の学校での職員会議で、東大出身の校長先生が教えてくださった。

大学名を出すには理由がある。

たぶん、意外なお話だから。


心に響く、いいお話だった。

職員会議では、中学校校長か高校校長が講話をしてくださった。

先日、金沢でお目に掛かった経営の方面の先生は、そのあたりの経緯をよく知っておられて、私は嬉しくなったのだけれど、仏教や神道の流れをくむ、言わば道徳的な思想的なもので、宗教としてとらえてもおられないようであった。

また、新しい生徒さんのお父様も、徳、ということをよくおっしゃいますよね、とよく知っておられるようだった。

華々しい場面が出ると、まるで極端に違う方向ばかりが目立ち、違う評価も受ける。

かつての生徒が、そのいきさつを漫画で知っているとかで、私に見せると言ったことは、正直不快だった。

何があったかは知らないし、でも、その教育のすばらしさを知っている私の立場からすれば、浅薄に批判だけを聞かせられるのは嫌だった。


ある日の職員会議で、高校校長がお話をしてくださった。

仏教でいうところの最高の徳は、人が喜ぶ姿を見て、自分が嬉しいということです、と。


ご自分のお若いころの失敗談などもときに交えながら、心のこもったお話をしてくださった。

私はわりに、そういう話が単純に胸に響いて、そのことをそうだと信じるタイプだった。


その校長先生のお話に、私はもう一つ大きく感銘を受けたお話があった。

先生は転勤することを常とされて生きて来られた方だった。

転勤はときに数年。ある時は数週間で異動、ということもあったようである。

その中で、せっかく親しくなれた方々との別れを、なんとも虚しく切なく思われて、そのことについて上司にお尋ねになったそうだ。

そしたら、その上司の先生は、当時は汽車だったからだろう。自分の転勤のために乗る列車が出発するその瞬間まで、その土地で出会った人のために働きなさい、とおっしゃったのだそうだ。

入院している、○○さんのところにお見舞いに行っていなかったな、と思えば、そちらに、○○の用事を済ませていなかったな、と思えばそれを実行する。転勤のための列車の時間まで、とにかく働くように・・・、と教えられて、先生は心を落ち着かせて、転勤することを乗り越えられるようになったそうである。


そのお話は私の胸に響き、結婚退職するときに、ちょうど図書館の本の整理をしていたときだったので、来年の話なら、図書館が大変な時なので、教科会議には出ないでもいいですか?と教科主任にお尋ねし、図書館のために最後まで働いた。

最後の最後まで・・・、と言っていただいたけれど、件の校長先生のお話を実行したかった。あとに残していきたくなかったのである。

退任のあいさつをした日も、それなりの格好で壇上に上がりあいさつした後、ジャージに着替えて、また、自分の仕事に戻った。それほど大事な学園だった。


もし、初任の学校が、あの学園でなかったら、私はここまで教育への思いを持ち続けられたかわからない。

自分の大学の先輩もたくさんおられたし、今思えばずいぶん育てていただいたし、可愛がっていただき、思いやりもたくさん掛けていただいた。

この年齢になって、改めて先輩方の背中の大きかったことを思う。

先輩の姿があり、なんで生徒たちは、先輩の先生の言うことを聞くのに、自分の指導は入らないのか?とよく悩み、先輩の姿を観察もしていた。

でも、先輩の真似などたかが知れている。

自分の指導は自分で身に着けて行かなければならないのである。


先輩方のお家にお呼ばれすることもあった。

そんな時、ご夫婦の在り方、子育て、そしてホームパーティーの開き方などを学んだ。


今思い返してみると、若い自分に言ってやりたくなる。

そんなに自分のことをちっぽけだと思わなくていいんだよ、って。

たかだか22歳から25歳の若い娘だった。

そんな若い娘が、教壇に立ち、教師として国語を教えさせていただき、生活指導などよくできたものだとも思う。

でも、一方で、そんな若い娘が、いくつも年の変わらない高校生相手に、一生懸命に教師たらんと努力していたのも事実である。

もう我が子たちがその頃の自分の年齢を越えてしまった今、自分でもよくやっていたなあ、と思わされる。

また、わからないながら手探りで、しかも全く勝手のわからない土地で、曲がりなりにも周りの人とお付き合いをし、子育てをしてきたものだと、半ば感心もし、半ば呆れる。


そんな子どもたちの子育ても、いつの間にか教えていただいていた、子育てとはどういうものか?ということが基本にあった。

子どもの意志を育てることの大切さも、お手伝いをして、人のために役立つことの大切さも、そして、その子に手を貸すばかりでなく、親がいなくても生きて行けるだけの、生き方を身につけさせて、そして社会に返すのだ、と教えられ、子育てを通して、何よりもわが身を育てているのだと思っていたことも思い出される。


子育ては一大事である。一生掛けての仕事である。

父や母の姿を見ていてもそう思わされる。

身体の小さな母が、今、全身で、我が子に伝えたいと思っていることを知っているがゆえになおさら私もそう思う。

わが身の姿一つでしか、伝わらないものだろうけれど。


真剣に生きれば生きるほど、毎日は彩のある素敵なものになる。輝きのあるものになる。

年を重ねて、思い出の大切さを思う。

そして、真剣であった分だけが、今に生きていることも実感する。

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