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ときに誰も信じられないことくらい誰にだってあるのだろうな。


先日、もう、論理的にめちゃくちゃな話をされて、挙句、論点ズレてるんで・・・、とまで言われた国語現代文、評論がめっぽう得意な教師・・・。


私が論点ズレてる・・・、と言われる日が来るとは思わなかった。

だいたいにおいて、話を整理する方が得意だし、独特の意味で、『論点がズレている』ときの勉強もしてきたはずである。


周りは呆れている。

どんな人が、私に論点ズレてる、って言ったのか?

という話である。


こちらからすれば、こっちの話をすれば、あっちの話、こっちの話をすればあっちの話・・・。

何か一定の意図でもあるのか・・・?とでも思われる話である。


挙句、目的は違うところにあるとしか思えない。


だいたい、大の大人が、それなりの人間関係がある人間に、会話の中で、『論点ズレてる』などという言葉を、ジョークでもなしに使ったら、それは対話を成り立たせるのではなくて、どっちが正しい、とか、どちらが勝ってるとかいう話になると思う。

仕事をしているもの同士の会話でなく、いや、職場でそんな言葉を使ったら、一瞬にして人間関係は悪化するだろう。


一緒に何かの目的に向かって走ろうとしている人間と、敵対するものではない。

できるだけ、仲良くしていこうと努力し、相手の意向はどういうものか?と察することが大切であると思う。


思いを受け止めることなく、自分の都合だけを一方的に言っていては、それは一緒に何もできなくなる。


基本が大事だと思われるお子さんには、基本に一生懸命取り組んでもらう。

一見よくできるお子さんでも、基本から取り組んだら、成績が安定することもある。


敢えて、難しい問題を、時間のあるうちにじっくりと取り組ませることもある。

それもこちらにはそれなりの考えがある。


それが合わない、というのなら、お家で学習していれば一番楽だと思う。

違う選択肢もあるだろう。


意見を言ってもらって困るということではない。

ただ、こちらは一応プロなので、ある一定の期間は、ある程度様子を見る必要がある。

もちろん、短期間で一瞬成績を伸ばす方法がないわけでもない。

全員に当てはまるかどうかはわからないにせよ。

でも、長い目で見て、こちらの方が効果的、ということもある。

意見を言わないで・・・、ということではなくて、何も自ら好んで対立構造の中にお子様を置くことはないと思うのである。


よく思う。

私はピアノの先生を目指して、ピアノ教室に通っていたこともあるけれど、音大出身ではない。

周りは、私が娘にピアノを教えればいい、と言ってくれたけれど、そんなに甘くないことはわかっていた。

でも、私が、ちょっと知っているから、音楽の世界に身を置いていなくもなかったから、弾ける、なんて言わない、ちょっと弾くだけの身で、娘のピアノの先生に、何か言っていたのではないかな?と反省する。

プロに対して、対等に、ものを言っていたのではないか?と、札幌時代の先生に対して、今も申し訳なかったことがあったのではないか・・・?と思い返す。

私は基本的に先生の批判はしなかったし、何をしたのどうの、とは聞かなかったし、また、難しすぎるの、易しすぎるの、とは言わなかった。

それでも、どこかで、生意気の虫が出て、大学でしっかり学ばれた先生に対して、要求がましいことを思っていたのではないか?先生のおっしゃることを素直に聞けてもいないのに、要求がましいことばかり思っていたのではないか?と反省する。

なぜなら、娘は、その後、あまりピアノを弾かなかったからである。

むしろ息子の方が好きそうだった。

それはぜったい先生のせいじゃない。

私がうまくサポートできていなかったからだ。

子どもの個性もあっただろう。

でも、子どもに起こることは、大抵私は自分の責任だと思ってきた。


そして一方、生徒さんについての自分のできることをいつも見つめている。今日、ある出版社の人から、私が、生徒を叱ってばかりではなくて、余裕をもって指導している・・・、と言ってくださった。


女性の教師であることの利点として、細かいところに気がつくから、生徒さんを叱る、とか、詰め込む、ではなくて、頭に入りやすい方法で指導されているのでは・・・?と言ってくださった。


その通りなのかどうかわからないけれど、たぶん、結構ほかの話もしているようで、特に大学受験古文などでは、相当時間的にコスパの良い授業をしているらしい。と生徒が言っている。

一つの文章の中で、古文常識も、文法も、心情理解もすべて話してしまう。


私に一題古文の文章をいただいたら、私は、語るべきことのほぼすべてをその文章から語ってしまうだろう。


同様に、社会を教えることで、国語力を伸ばしている場合もある。

国語ができれば、数学もできる。

数学と国語は、実は必要とされる力が似ている。

一つの物事の流れをつかめば、だいたいに応用できる場合がある。


それでも、どこからくる考えなのか、○○とか○○の教科は自分でできますよね、やっぱり○○とか○○とかは教えてもらわないと・・・、と言われたら、びっくりする。

それはその人による。その子による。

どこからアプローチするかは、大人の判断にもよる。



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