言葉の力
今日、業者さんとある打ち合わせをしていた。
その中で、なぜか、国語力の話が出てきた。
その方いわく・・・。
本当に国語なんですよね。
すべて国語。
言葉を知っていれば、武器にもなるし、ときには凶器になることもあって・・・。
と言われた。
言葉と向き合って生きてきた。
ときにあまりにお付き合いが深すぎて、その繊細な違いに敏感すぎて、ほかの人の使う言葉にも意味を感じ取ってしまって、我と自ら、自分を追い詰めることがあるほど、言葉との付き合いは深いし、長い。
言葉が武器になる。
そういう話を大学でしている。
この言葉の定義を知ることが、これから、あなたたちを守ることになるし、あなた方の仕事の対象となる人々を守ることになるのよ・・・。
そんな話をしに出掛けている。
非常に数学的だなあ、と感じることもあるほど、定義を分析しなければならない分野である。
凶器になる使い方をしてはならない。
人を追い詰めるために使ってはならない。
一生かけて、言葉の使い方を学んでいかなければならない。
一生かけて、自分が間違ってはいないか、何度も言葉を使って、悩めなければならない。
使命感を強く必要とする仕事をしていながら、自分を振り返って、悩めなくなったら、終わりだと思う。
プライベートで話すなら、親なんて、一生悩むべき役割かもしれないなあ、と思う。
きっと棺桶に入るその瞬間まで、教師として、親として、それから、これからきっと自分の身に負うべき役割について、悩み続けることだろう・・・。
その悩むことを可能にするのは言葉だ。
言葉というのは、そういう力を持つものだと思う。
一方、紀貫之の、『古今和歌集』にあるように、人々の心も、自然も、ありとあらゆるものの心を和ませる力があるのも言葉である。なんの力も入れずに、なんと強い作用をもつものだろうか。言葉というものは。
たった、一つの、ありがとう、と言いそびれたために、変わってしまう関係もある。
たった一つの言葉で、すべてが好転することもある。
なんとか、言葉で、人の役に立ちたい。
言葉の力の偉大さを思うとき、同時に言葉を扱う仕事をさせていただいているしあわせを、つくづくと思う。
ましてや、宝物のように美しい大和言葉をもつ国に生まれ、その日本語を通して、指導できる立場にある身としては・・・。