考えさせられること
忙殺?かと思いきや、割と開校時に比べて、楽してる、としか思えなかった私。
刺激がほしいくらいに、なんだか人生の中でも、もっと走り続けたい私に、まるで、ぴったり、というような出会いと、出来事があった。
が、しかし、何かあると、動かなければならないし、いろいろ対応が必要になってくる、しばらく、何も考える暇がないだろう。それに、最近、甘ったるかった私は、そろそろ本気を出さなければならなくなるだろう。
昨年のセミナーで、大学の先生に怒られた、そのやれ!と言われたことに、ようやく一歩、踏み出してしまった気分。
しかし、キツイ。
キツイことも言われなければならなくなるし。
本来、叱ってくれたり、なんだか困った人がいるほうが、人間、成長するに決まっている。
ピリッと、スパイスを効かせたように、あれこれ、キツイことを言ってくれる人というのはありがたい存在になる。
教室での話ではないけど・・・。
その話の中で、ある人が言った言葉に私は反応してしまった。
とんでもないご苦労の中で、人にも裏切られて、でも、そのことがあったから、今は立派になって、むしろ勉強になった、という人の話を聞いた。
「でも、友だちには会わなくなりましたね。」とおっしゃるその方に、私は、思わず言ってしまった。
「寂しくなってしまったんでしょうね。ご自分がしんどいときに、お友達がされた対応に・・・。」
そうして、「でも、最大の復讐(復讐とは無縁の私の言葉?だって、復讐って、怖いし、そんなことしたら、なんか自分に返ってきそうやん!)は、今度お友達に会われたとき、にっこり笑って、何にもなかったような顔して、しあわせそうにしていることじゃないかなあ・・・。弱いんですよね、そういう人って。」と言ってしまった。
強い人、というのは、人が困っているときに、絶対放っておいたりしないし、ましてや、喜ぶなんてことはしない。人が困ったときに、知らん顔したり、あるいは喜ぶ、そういう態度を見せる、なんて、弱さの極みだと思う。
何でも人は言う。一生懸命、人の弱点を探す人もいる。何ができない、これができない、と重箱の隅を突くようなことをする人だっているだろう。失礼極まりないと思うけど。
でも、意地悪でもいい。動機がなんだっていい。
自分に注意してくれる人の言葉をまっすぐ受け取ったもの勝ち。
料理が下手だと、難癖つけられたら、、一生懸命頑張って、上手になったらいい。
自分を成長させる糧にできたもん勝ち、だと思うのだけれど。
人との勝負になんて勝ちたくない。
いつも、自分の相手は自分。
如何に心をまっすぐ、強く保てるか、まるでそれこそ競争のように、自分のこころを支えていく。
昨日、M先生に、あることで褒められた。
「さすが大和!」とあることについての返信メールが来たので、「大和にでも行ったんかなあ・・・。食料品売り場?」と思っていたら、「大和魂(中庸)のことです。」とメールが来た。
私は、あくまで、努力のレベルの話だけれど、あんまり人と対立するのは好きではない。仮に嫌なことを言われたとしても、適当に、自分の心が治まるのを待ったり、整理できるようにちょっと頑張ったり、人の力を借りもする。
もう、数か月、私はあることで、M先生のお力を借りていた。昨日、ようやく整理がついた気がして、その報告をしたのだった。
むしろ二分論的な、何かにはっきりさせようとする、若いM先生の考え方と私の考え方は、時に相いれないこともあるが、たいてい、M先生は、私が何とかしようと努力することには付き合ってくださる。
今回も、私の勝ち?だった。結果的に。「ほうらね!」という結果になった。
どちらかにしようとされるM先生と、ここは折れよう、時期を待とう、とする私。ニュートラルなO先生。O先生は、いろいろ話を聞いてくださる。
私は、日本人の「大和魂」に掛けているのだけれど・・・。
だって、大和撫子ですもの。笑
高3の受験生に、すごいことを言う生徒がいる。
「なんかあったときに、謝ったもんがちじゃ、ありませんか?何かしたほうが、謝られたら、負けたって思うじゃないですか?」とか、「悩めたもの勝ちじゃないですか。」何て、およそ18歳の生徒が言う言葉ではないようなことを言ってくれたりする。
そんな彼の言葉に、大人の私が、励まされていたりして・・・。
とりあえず、長幼の序は守れる人間でいたいし、それから、やっぱり、偉い人ほど謙虚で、敬語もきちんと使えるよなあ、なんて感心した次第。たくさん生きてきた、ということが、どれほど尊敬に値するか、なんて考えてしまった。しかも苦労に負けず、まっすぐな心を持ち続けられたら、素敵だろうなあ、と思う。
なんで、立派な人には必ずと言っていいほど逆境があるのだろう。
何て、大和魂ならぬ、漢文的に考える私。