ハマっている作家
写真はその人ではありませんが、最近突然ハマり出した作家がいる。
その名も古市憲寿。
確か国語の評論などでその論を読んだことがあったのではないか?
名前だけは知っていた。話題の人だし。
それが何でだったのだろうか?突然どういう人か知りたくなって、というか世間の評価が正しいのかどうか、知りたくなって読みだしたのである。
まあ、おもしろい年齢ではあるし、芥川賞候補に二回もなっている社会学者だし。
ということで、まずは『奈落』という作品から読みだした。ちょうどゴールデンウィークに突入する頃のことだったと思う。
ベッドに入ってから、あるいは病院の待合で、少しずつ読み始めたが、だいたいおもしろければ一気に読んでしまう。
正直一気に読んでしまった。
それから、『平成くん、さようなら』を読んだ。
そして、『楽観論』。一気に『ヒノマル』。
たった四冊だけど、それなりに見えてきたものがあるし、どこか共感するものもある。
結構毒舌のコメンテーターだということだけれど、毒舌に思えず、周りに可愛がられているようだ。
社会学者を名乗るなら博士を取ってからにしろだとかなんだとかいう説があるし、友人は学者というよりコメンテーターのイメージが強い、というけれど、私の中では結構面白い作家だし、その文学者として社会学的な視点を使っているだけのような気がする。
社会学的な視野も認めるし、だからこその思想もあるのもわかるが、それよりも私は、この人の文学的方向性に興味がある。
誰しも生業を持って生きていかなければならないのだから。
ただ、この人の姿勢って、どちらかに偏るというよりも、どこか中庸を目指しているような気がする。
結構生きるということを知っているような。
芥川賞選考委員会では、古典になっていないものの引用が多すぎる、だとか、ほかの人の資料を使ったとか言われているが、もしかしたら、今はしっかりその立場を確立した作家が、その作品が世に出た頃に、あれこれ言われたように、こういう作風もいずれオーソドックスになるときが来るのではないか?と思った。
古典作品は確かに時の洗礼を受け、普遍性をもって人々の心に訴えるものがある。
まだ粗削りということになるのだろうか?
確かにまだこなれていないところもあるかに思う。
それでも、この作家の作品は、それ独自の世界を作り上げるのに、実在の人、あるいはできごとを上手に使っているように思えてならない。違和感なく受け入れている自分の感性は正しいのかどうか。
それこそ時の試練を受けてどう変遷していくのであろうか。
などとそれらしいことを言ってるけど、本屋に行っては、
『古市くんの本はどこかな~?』
などと古市くんを連発し、古市くんのインスタを見てニンマリし、とうとう先日は古市くんが出て来る夢を見てしまった。
結構毒舌だとかなんだとか言いながら、母性本能をくすぐるタイプのような気もする。
正直、顔はタイプではないんだが・・・。(笑)
思い出した。
今指導している、大学に編入したい生徒さんが目指すゼミの先生と古市憲寿さんが、知り合いというか、同じシンポジウムで話していたとか、そういうつながりで、知りたくなったのだった。もちろん、AIの研究者である、その生徒が目指すゼミの先生の本はkinndleでサッサと読んでしまった。その先に、古市憲寿ってどんな人なのだろう?と思ったのだった。
まあね。しばらくは私の中でちょっとアイドル扱いになるかもね・・・。
どこかに、古市さんって、頭いいのに人気者、とあって、頭いい人は好かれない、という構図があるのか?と思い、笑ってしまった。頭のいい人が嫌われる理由があるとしたら何だろう?
きっと頭のいい人って、すぐに話が分かってくれて、なかなか時間的にショートカットできて、ありがたい存在であるのではないだろうか?などと考えてしまった。
古市くんの本を探していて、本屋さんで、原田マハの作品を見つけ、それも面白くてあっと言う間に読んでしまい、もう一冊の原田マハ作品の名作をまた読んでしまい、そうして、古市憲寿の本の合間になぜか原田マハの作品が入り、最近、本当に読めなくなっていた小説に回帰しているところがある。
どうも哲学書やビジネス書を読むことが多かった世に思う。
社会学者や精神分析家なども。
どうして文学書を読む余裕がなかったのだろうか?
と思いながら、ちょっとは戻ることのできたゴールデンウィークだったような気がする。
コロナ禍もあり、心に余裕がなくなっていたのかな?
そういえば、最近、外出することが多くなった。
そのことが影響しているのだろうか?
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