この人、好きだなあ・・・。-古典文学の中での出会い。
別に深い意味はないのだけれど、時折、好きな男性が現れる・・・。
いや、現実ならば困る、じゃなくて、現実ならばいいんだろうけれど、それは古典の世界での話。
『枕草子』に出てくるあの男性、『古今著聞集』に出てくる、例のあの人、ああ、『宇治拾遺物語』の、あの大臣、というわけで、私の中では、古典の中、あるいは、近現代でもいいのだけれど、本の中の男性に限られているような・・・。
本の中の人は、客観的に見つめていればいいだけなので、私に何も意地悪もいないし、いい人はいい人でいてくれる。
こちらが決まりが悪くなるくらいに素晴らしくても、別にそばで顔を赤らめなくてもいい。
ただ、いいなあ・・・!と感嘆していればいいのである。
もう一つ、課題がある。
仕事を通して、人格を磨いていく・・・、という超正論。
そうしてもう一つ、人間だから、間違いもあっていい・・・、という説。
私は、どうも前者を選んでしまいそうになる。
でも、どう考えても、理知的で、ある種カリスマ性をもった源頼朝とドッロドロの後白河法皇は、どちらが文学作品的に面白いか?と言われれば、どうしたって後白河法皇に軍配が上がる。
そんな人、そばにいてくれたら、とっても困る人だけれど、でも、面白さで言うと断然、ちょっと、いやだいぶワル、いや、人間味のある方が面白い。
もしかしたら、本を読んで、およそ自分が現実ではありえない姿を誰かに代わりにしてもらって、それで納得しているのかなあ。
心理学的に分析したら、投影だの、抑圧だのいろいろな言葉で説明もつくのだろうけれど、そこは文学作品なので、まあ。
自分が面白ければそれでいいんだよなあ。
それにしても、本当は高校の古文も大学受験古文も、人間的?人間らしさ?人間がどういうことを考えたりしたりするか、また、そのどうしようもなさなどが満載の素敵な科目なんだけどなあ。
もっと味わい深い学び方をさせてあげることはできないものか?
先日も、高校生の古典文法に取り組んでいて、文法の問題を解いていたら、細切れになってはいるものの、あ、これ、あの作品の○○の部分、あ、これはあの・・・、というところが多くて、もっと広げて語ることができたらなあ、と思ってしまった。
高校のときは、文系だけど、数Ⅲも、理科もⅡ以外は一応全部学ばせてもらった。
どこかで残っているものだ。
一度学んだものは。
でも、そのどこかで学んだことが、急に面白さがわかることがあり、高校のときにその面白さがわかっていれば、毎日がもっと楽しかっただろうなあ・・・、などと、非常にのんびりしたことを考えていたりする。
もっとどこかの範囲だけ深く、などということはできないかなあ・・・、などと考えてみたりしている。
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