育てたい力ー生きていく力
なんで教師になったのか?と言われれば、やはり、それなりに若い頃、悩む経験もし、勉強とは?学問とは?と考えさせられる機会が多かったからだろう・・・。加えて、私はどうも人間が好きだったようで・・・。
高校に行って、実は、それはそれは素晴らしい方たちに会えるのだろうと思っていたら、あんまり心惹かれることがなく、途方に暮れた、というのが大きいかもしれない。感情的に、誰かを好き、と思ったり、あんまりできなかった。
それは一部なんだ、と言われてしまえば、そうなんだろうし、どこの世界にでも
犯罪を犯す人はいるのだけれど、かつては、一応、難関大、または進学校に行ったら、一応誇りがあるから、○○はしない、というようなところがあったし、入るための努力を認められるようなところがあったのかもしれない。
でも、東京で、大阪で、あるいは京都で、それなりに難関大(超難関大も含めて。)の学生が、なんてバカな!という事件を起こして、あたら若い人生を棒に振っているのを目にする。または、「高学歴ニート」と呼ばれる人たちも存在する。
入ればいいのだろうか?
○○大学に行ってます。○○大学卒業です。と言えればいいのだろうか?
先日、林修先生が、おっしゃっていた。東大女子○○名の前で、東大女子あるあるの話。
今はみんな、東大かそうでないか?という軸でものを考えているんだろうね。また、そのなかで勉強してるから、そうなりがちだよね。でもね、社会に出たら、仕事ができるかどうか?ということだけが問題にされるんだ。東大が持つのは、たかが数年。確かに打順は早く来るよ。で、凡退が続けば、なあんだ、アイツ、と言われるのも早いんだよ。
だから、大学受験までは、志望校目指してまっしぐらに勉強すればいい。
でも、受験が終わったら、大学の名前が何とかしてくれるなんて思ったら、大間違い。
大学は何もしてくれません。
会社に入ったら、あるいは研究所、学校現場で、いかに使えるか?しか、関係ないんです。もちろん、学閥や人脈もある程度は役立つけど、実力がなければ、高学歴な分だけ、評価が極端に出るだけ。
だから、よく思う。
学校は何もしてくれない。学校の名前を落とすのも上げるのも、自分。
学校の値打ちを下げるなんて、簡単なこと。
では、何がしたいか?
合格できるだけの人間力ーつまりは、周りなんか気にせず、自分と闘い抜ける力を培ってほしい。成績というと、何かというと相対的に上がらない、という話になるけれど、以前の自分とどうか?という目でみているだろうか?周りばかり気にして、周りの出来ばかり気にしていたら、自分の手元がお留守になる。
自分の進歩だけを見つめて、明るく単純にコツコツと実力を重ねていくのである。
大学に行ってもスランプに陥るかもしれない。社会に出ても、うまくいかずに挫折したり、いわゆるコケることもあるだろう。周りが優秀?な人ばかりで身動きできなくなることもあるかもしれない。そんなとき、立ち直り方っていうものがある。それをこそ身に着けておいてほしいし、伝えたいことなんだけどなあ。
先日、ある若いお嬢さんに、「おんなじ大学ですよねー?」と言われた。ふん、まあね。そこで、話を合わせていた。その学部の先生と、ちょっと今、関わりがあり、ご教授いただいている面もあって。どうも、よくはわからないが。彼女は、大学に、いいところに就職するために勉強したのだそうだ。それは人それぞれの価値観である。話を聴いていると、お勤め先が、いいところ、だということだそうで・・・。
それはおめでたいことだけれど、一生、それだけでは通用しない。いい大学出ておられて、いいところにお勤めで・・・、では世間は通用しない。そんなもん、卒業してから、せいぜい数年だろう。
若いから、と適当に話を合わせておいた。
でも、その時、自分が、年輩の方にご挨拶するときには、「私は、学部は、○○ですが、後輩にあたります。」とご挨拶するだろう。同じ大学ですよね、とは言えないなあ、と思った。同じ大学でも、生き方は、まったく同じではないからなあ・・・。
そばにいた人は、彼女とあなたは、まったく違う、と言っておられた。
そう、同窓生の親しみはあっても、人生なんて千差万別。