早くも春期講習の準備!?
※実は、このブログ、少し前に書いたものです。
ほんの少し時間ができて、そうしたら、保護者の方からお電話があって、生徒さんの指導のコマが増えたり、そのことから派生して、「ああ、この教科の講座開かなくちゃ。」などと手配したり、あるいは、気になる生徒さんについて、少し面談をしているうちに(それはお電話であったり、教室での面談であったりするわけではあるけれど。)、いつの間にか、春期講習の準備をしていることになってしまっている。
春になったら、ほかの、お知り合いの仕事のちょっとしたお手伝いもできるかなあ、などと考えたりしていたけれど、結局自分のことで精一杯になってしまいそうである・・・。
よくあるのは、必要だったら、授業入れてください。先生に時間があればですが・・・、などと言ってくださる。○○してもらった方が良くはないですか?なんて言ってくださる。信頼して、お任せしてくださることが本当に嬉しい。
一方で、化学のY先生と、ビオラとピアノでのちょっとしたデュオのお話なんかが出て、まるで先生の素敵な思いやりのように思えてくる。生徒さんの前で、ということだと思うけれど、先生が、楽譜を持ってきてくださるらしい。さてさて伴奏できるほどの腕であるのかどうか、怪しいけれど・・・。
正直、別れの季節でもある。
卒業、という意味では素敵な別れである。
人生の中には、寂しい別れもある。
合わなくなる人も出てくる。
どちらかが成長して、その成長の度合いが変わってくると、歩調が合わなくなって、しょうがないこともあるだろう。
できるだけ自分が、誰かの思い出の中で、美しくない姿でないようにと祈っている。
寂しい別れがあるたびに、素敵な出会いの貴さを思うと同時に、自分自身の姿が、誰かの心の中で、あまり嫌な役割でないといいなあ、とついつい思ってしまう。
かつて、小さな息子に諭したことがあった。
彼が、どうしても、話したくはない人にお願いしたければならなかったとき、「○○ちゃん、嫌な人は、嫌な人になりたくて、嫌な人になってるわけじゃ、ないんだよ。どうしようもない気持ちって、きっとあるんだと思うよ。」
長いまつ毛を、ぱちぱちさせて、じっと考えている彼の姿を感じていた。
その数時間後、彼は、その時の彼にとって苦手な人に、お願いをしていた。
はっきりと大きな声で。
彼の願いは聞き入れられなかったけれど、そうして、私は、こんな小さな子の願いを、どうして聞いてもらえないのか、と少し悔しかったけれど、彼のこころのなかに、自分はしっかり、相手に言ったよ、というものがあるのを感じた。
彼は、「ぼく、ちゃんと○○と○○について、お願いしたからね!」と、すっきりした様子で話していた。
私も、わからないことに対して、理解しようという大きな気持ちを忘れていないかな、と振り返っている。
寂しいことがあったから。
生徒さんや保護者の方にではなくて・・・。
信じていた人がいた。
ほかの人が何と言おうと、私は信じていた。
ほぼ数年のお付き合い。
周りから、いろんなことを聞いていた。
でも、私には優しくて、理解を示してくれたし、協力もしてくれた。
その人も、どうしようもない気持ちを抱えているんだろうな。
事実を曲げてまで、なんとか自分の位置を上げたいような物言いが、辛い。
何より、いい大人になって、自分の母校を愛することもできないのかな、と寂しいのである。
私は、生徒さんたちに、自分を越えて、大きく育ってほしい。
自分たちより、ずっとずっと立派になってほしい。
だから、進路指導ひとつをとってみても、自分の私情や、都合や、まして言い訳などしない。
私は、母校に誇りを持っている。
縁あって学ばせていただいた母校である。
○○に行きたかったなどとは思わない。
かつて、予備校の同僚が言った。
自分の母校にはならなかった第一志望の学校のことなど言うものじゃない。と。
さもありなん、と思った。
なぜなら、○○行きたかったんです、と言われて、いい気分がするものでもないから。
どうしても、母校にしたければ、恋々と思うより、再受験するなり、何か、その学校に行っていたら受験していたであろう試験でも受験すればよい。
そうでなければ、学ぶことになった、その学校を、母校として誇りに思うべきだと思う。
母校は何もしてくれないけど、母校のために尽くすことはできるから・・・。
と言いながら、先輩や後輩に会うために、そろそろ大学の同窓会くらいには出掛けてみるのも楽しいかな、などとは思い始めているのではあるけれど・・・。笑