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蓋し名言。


実は、納得のいっていないことがある。

毎日、教科指導はしている。

大学受験に向けて、高校受験に向けて。

チェリー・ブロッサムにお子様をお預けいただいている保護者の方は、チェリー・ブロッサムが、ただ教科指導をするだけではなく、意欲をもって勉強し、それが人間的な向上につながっていってほしいという、私の想いを分かってくださっている方が来てくださっていると信じている。

どうしても、教科指導しかしていないなあ、と思われるとき、私は、『教育をしていない。』という想いに襲われる。

成績だけ伸ばしてください、と言われたら、入塾されることをお勧めしないかもしれない。

大学受験指導を通して、高校受験指導を通して、どれほど電話で相談し、面談を行ってきただろう。

そんな中で、受験生を見守る親御さんも私も一緒に成長しているような気がしている。

夏ごろ、このままでは、受験まで持たないなあ、と思った生徒さんの気持ちを思って、親御さんと相談し、『今なら間に合うから、先生、言ってやってください。親の言うことは聞かないから、だから、これがもっと後になったら勉強できなくなるかもしれないから、今、厳しく言ってやってください。』と依頼されたお母さまがいらした。よそのお子様にそこまで言っていいのかと思うほどのことを言うこともある。それを感謝し、受け止めておられた場合、非常にお子様は伸びる。夏に辛い思いもしながら、言っておいてよかったと、今振り返っている。

ある人に言われた。

教科指導はしているけれど、人間の教育になってない、と思う子がいると言ったら、なんで?あなたがすべてを教育しなければならないわけではないやない?僕だって、そしたら、みんな僕が診ることになるのん?と言われ、確かにそうだなあ、と思った。

今、親子で成長しておられる受験生のご家族がおられる。

あの後、家族で話し合ったんですけど、本人の意思が堅くて、とか、あの後、家族で、同じ方向で、子どもを見守ろうと思ったんです、あるいは、先生に声を掛けていただいて、子どもが、だんだん納得して勉強するようになったんです、などと、明るいことを言ってくださったりする。

私が、教師をしていて、嫌なことが一つある。先生と呼ばれて、一応、指導をしなければならないことである。人の人生に、首を突っ込みたくない。ほかのの人間関係なら、尊重して、言わないで置くだろうことも、教室で預かってしまったら、それはある種の責任をもつことになる。頭を高くして、先生面したくなんかない。かと言って、先生として扱っていただかなければ、指導は入らない。

かつて、先輩の先生に、宴会のあとで連れて行っていただいた場所で、『この人、真弓ちゃんでええでー。先生、と言われて嬉しい人と違うから。』と大阪出身らしく、大阪弁で紹介された。多分、性質的には、先生ではないかもしれない。

入塾された限り、私は、先生として存在する。

ほかの先生に対しては、それこそ代表として取りまとめていかなければならない。

ピーンと張った緊張感のある糸で、人と人との間を、それは強かったり弱かったりするかもしれないけれど、どこかでつなげておかなければならない。

誰かの心の中に入って行くのは嫌いである。ただ、つながってはいなければ、指導はできない。

そのつながりを、ささやかに、少しずつ紡いでいく仕事である。

それから、誰かを○○な人、と類型論で語るのも好きではない。だから、ステレオタイプ的に当てはめもしないようにしている。確かに、何らかの傾向で語ることはあっても。

第一、人間関係というのは相対的なものであるから、誰かに対して、いい人が、誰かに対しては、あまり、ということもあるだろう。

と自分を語ってみたところで、私という人間の像を、どこかでそれこそステレオタイプ的に作られることもあるだろう。たとえば、何かというと大阪人、という表現が出た遠い昔のように。そういえば、大阪人と言われることがなくなった、と言うか、もし仮に言われたとしても、気付かないだろうし、大阪出身であることに気付いていない人もいるから、おかしなもので・・・。

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