気付いたこと
元気でいることが、周りの人にとって、とっても大切だよなあ、と思っている。
昨日、実は、ちょっぴりいいことがあった。
高2生の国語を見ていて、現代文だったのだけれど、答えがまったくない問題を解いていて、自分の答えに、かなり精緻な出来栄えだと嬉しくなった。
久しぶりに納得のできる解答が仕上がった。
実は、数年ぶりか?という出来栄えだった。
高2のUくんも、すごい!と褒めてくれた。
ただいま、国公立二次試験対策真っ最中である。
最近、やたらと高校時代を思い出す。
高3の担任の先生の想いを、共感をもって思い出している自分がいる。
進路指導部で、中心になって働いておられた。
まだ小さいお子様を抱えておられた、シャキシャキとした先生だった。
融通が利くし、温かいし、あれこれ家庭の事情なども汲んで、それぞれに進路指導をされていた。
志望校ばかり高くして、勉強をしなければ、バシッと怒られた。ときには、ほぼほぼ無視もされた。
470人の進路指導を抱えて、クラス担任をして、どれほどの精神的負担だったろうかと思う。
私たち生徒は、1月一杯は学校に行っていたが、2月からは、自宅で、それぞれ私大を受験したり、国公立二次試験を待っていた。学校の図書館で勉強することもできたけれど。
1月、先生がおっしゃった。『学校休んで、家で勉強、というのもいいのかもしれんけど、学校に来てた方が、精神的にもいいと思うよ。明るい顔してる人でも、心の中は、結構しんどいはずやから。』とおっしゃったりして、結構、悩んでいたりすることが、外側に見えやすい私など、明るい顔してる子が、なんでしんどいのん?なんて、ひどく表面的に考えていた。
一方、大学の先輩がおっしゃっていた、『しんどいときに、明るい顔するのも能力の一つ。』という言葉も、よく覚えている。
大きな団体で動く部活動をしていた私は、それなりの制約の中で、精一杯活動していたのだろうけれど、先輩のようにはとてもできていないだろうと考えていた。
高校時代や大学時代の思い出を、最近、なんだか塗り替えしている自分に気付く。
ある心理学の本を読んだ。いや、読み返した。
事実があるのではなく、その事実に自分がどう解釈を加えていくか、だという表現に、いつもドキッとさせられる。
自分の言動を、時折、自分が思っているよりずっと軽く表層的に受け取られて、ひどく寂しい想いをすることもある。
自分が、人のことを精一杯考えたり、あれこれ思いやっていることについて。
しかし、自分の考えは考えだし、思いやっていることは思いやっていることである。
だから、それは自分だけのものだと思っている。
その瞬間瞬間に精一杯だった自分や、そのときそのとき必死に考えて決断を下し続けた自分のその真剣さは、私だけのものである。伝わることを期待したり、何かの見返りを求めてではなく、ただただ自分の成長のためなのだろうと思う。
もうすぐたくさん教室から巣立っていく生徒さんがいる。
できることなら、私のことなど忘れて、そう、忘れるくらいに充実した大学生活を送ってほしいものである。
切ない別れが、お互いの成長のためであることもある。
そうして、つながる縁ならば、時を経て、何らかの形でつながることもあるだろう。
かつて、高校教諭になって、それはそれは生徒たちに騒がれた。一年目など、生徒は言うことを聞いてくれない。1、2年目に担当した生徒に、退職して、里帰りしていた折に出会った。二人の生徒は、それぞれ短大を卒業し、OLと幼稚園教諭になっていた。
5か月の娘を前に抱っこして、連れていた私と、彼女らは、ちょっとお茶をした。
幼稚園教諭になった生徒は、園児が騒いで言うことを聴いてくれないときに、私の授業で、大騒ぎしていたことを思い出し、先生に悪いことしたなあ、と思うと話してくれた。
こちらは、全部忘れてしまっていた。むしろ成長の過程として、ありがたく受け止めていた面もあったくらいである。というより、あの苦労があったから、赤ん坊の世話など、別に大変でも何でもない、という具合だった。
大学受験生がたくさんいるので、4月には、教室の人数も、少し落ち着く。
もう一度、いろいろ原点に返って考えたいこともある。
昨日、中三から通ってこられていて、今高2の生徒さんといろいろ話していた。
国語のチェリー・ブロッサムですから。先生がいないと、と話してくれた。件の解答を褒めてくれた彼である。
どれほど彼らに助けてもらってきたことだろう。
昨日、彼がいてくれて、私はどれほど助かったことだろう。
昨日は、M先生も助けてくれた。
えらく大人な顔をして。
Kちゃんが今日言っていた。
いろんな人がおるなー、と思う、とつくづく、しみじみと。
そう、いろんな人がいるから、世の中なんだと思う。
自分もいろんな人の中の一人である。
昨日、教師になって、初めて実感した。
教師と言っても、人間なんだ。
悲しいときは悲しいし、傷つくときは傷ついてもいい。
何十年と教師をしてきて、いつも、教師だから、と思い続けてきた自分に、やっと、教師である前に、ひとりの人間である自分を認めてあげた気がする。
もしかしたら、M先生のおかげかもしれないけれど・・・。
高3の担任の先生がおっしゃっていた、『教師と生徒は、give and take の関係なんだと思います。』という言葉を思い出した。
私は、多分、お互いに学び合う、一方的に教師が教えるのではなくて、という意味だと思っていた。
それよりも、ずいぶんと、ある意味人間味のある、血の通った言葉だったのかもしれない、と思い始めている。