寂しさ
最近、寂しさって共鳴するよなあ、と思っている。
もちろん、怒りだって。
私は、むしろ、人の温かさや、優しさや、嬉しさに共鳴しがちなのだけれど、最近は、寂しい気持ちに共鳴して、ちょっと切ない想いをしている。
しばらく、寂しいなんて、思う暇もなかった私である。
それなのに、そんな時間はないはずなのに、思わず知らず、寂しさに共鳴してしまっていて、なんだか世の中の見方まで違ってきそうな自分がいる。
単に疲れているだけかもしれない。
人をサポートする仕事をしているので、結構、自分のメンテナンスには余念がない。
寝具、マッサージのための小物。入浴剤など、疲労回復のためのグッズは、割と気にしているような気がする。食事には、気を使ってられないけれど。
生野菜を買ってきたら、あるいは届いたら、ササっと袋から出して、手でちぎって食べるようにしていたりはするけれど。昨日、本当に久しぶりにコーヒーとケーキをあるお店でいただいて、ああ、こういう時間って大事だなあ、と思った。専門学校の補講をした帰りである。
いつも教室でコーヒーを飲んでいるくせに、まったく場所が変わったら、こんなに気分が変わるのか!と驚いてしまった。
その間にも、生徒さんや親御さんから、メールが来たり、電話が鳴ったりする。
頼りにされている、しあわせ。
私は、十分に不遜である。
人の気持ちを理解したいと思う。
そう言ってみて、『人の気持ちなんて、たった一つの言葉で表せるようなものではないじゃないですか。』と言われ、確かにねえ、と理屈やの私は、なんとか、目の前にある事象に名前を付けようと頑張っていたなあと気づく。
人の気持ちがわかるわけない。だいたい、分かろうとすること自体に無理がある。わかったと思うことがあったとしたら、それは、傲慢かもしれない。わかろうと努力し、気遣うことはできる。
その私の気遣いが、どこまで届いているのか、なかなかわからなくて、辛がってみたりする。しかし、何かを思いやったりすることも、それはそれ、自分のものなのだと思う。
心の交流を経験することは多い方ではないかと思う。
人と、心が通じ合ったと感じたとき、私は、とても嬉しくなる。
喜んでいるのか、そうでないのかわからないとき、私は寂しくなる。
でも、それはそれ、私の寂しさである。
寂しさを知らないなんていうのも、人間として、寂しいことなのかもしれない。
共鳴しているのだか、なんだかわからなくても、寂しいという感情を、しっかりと味わう機会があっただけでも、人間らしいではないか。