目指していること。
自分の成長を、誰かとの再会に希望をもつことで、促している部分はあるかもしれないなあ、と思う。
再会したい人や、あるいは出会いたい人にあったときに、きちんと話せる自分でありたい、来し方を責任をもって話すことのできる自分で在りたい、というのはあるかもしれない。
きちんと生きていきたい、と思う。
自分の足でしっかり歩いて、自分に起こったことに責任をもって。
話していると、あるいは一緒にいると、すべてこちらが悪いのか?と思わされる人がいる。
それって、多分、自分の責任を逃れて、相手の責任にしがちな人といるときではないか?と思わされた。
というのも、知り合いの、Tさんのせいである。
Tさんは、責任とれる人、という表現をよくする。
どうも、彼は、責任を取り続けてきた人のようである。
若いんだけれど。
「大体、その、○○さんと一緒で、○○を頼りにしていたんです、と人のせいにしているところが、僕から言わせたら、本人が責任とってないんですよ。」なんて。
責任?
なんの責任?
それは、それぞれの自覚によって、いろいろ変わってくるだろう。
自分への課し方によって、まったく違ったものになるだろう。
身近なところで言えば、自分の受験であり、自分の勉強であり、私たちの立場であれば、自分の指導、自分の授業・・・。
私の授業、とこだわりと自信をもって話す同僚がかつていた。
どんなときに、どんな風に責任を取るか?
その人が顕れるんだろうなあ、と思う。
ただただ、誠心誠意をもって、謝ってくれるだけでも、納得させられることもあるだろう。
言葉だけで、「だから、謝っているじゃない。」と言う人がかつていたけれど、みんな、それは全然謝ってないじゃん!と評する。
責任とっている態度ではない。
悪いとは思っていないから。
事実と真実は違う。
そんなもの、伝わるもので、心底悪いと思っているか、相手の誇りに思っているものを踏みにじったことに対して、申し訳ないと思っているかどうかはわかるものである。
ある人に謝ってほしい、と思い続けてきた。
だから、謝ってるやん!といつも言っていたその人を、その人と同性の、ある人が言った言葉から、その印象を思い出し、「謝ってほしい。」と言っていたのを思い出した。
大したことではないのかもしれない。
ただただ、その人が、悪かった、と思ってくれれば、ホッとするのだろうと思う。
でも、最終的に行きつくのは、人なんてどうでも良くて、自分が、どう思い、どう行動するかに、自分というものの存在が問われるのであって、人が、何を言ったか、何をしたかなんて、関係ないなあ、と思うのである。
謝ってほしい、などと思っていることからして、子どもだし、まあ、忙しくしているくせに、暇なやっちゃなあ、と自分にツッコミ入れているのである。
だって、仕事しろ!コールが多くて、いい年して、おセンチに、再会がどうの、なんて言ってる暇、なさそうである。
新しい出会いに、対応できていないのだから・・・。
いや、表面的には対応しているけれど、気持ちが、着いて行くのに必死、というほうが正しいのかもしれない。
ときは移り、ことは進む。
それだけ・・・。