再会
人生を、どう喩えるかはそれぞれだろうけれど、もしかしたら、真っ白なキャンバスに、自分で絵を描いていく、という風に、喩えられるかもしれない。
最近、ちょっとした再会があった。
再会?
再会には、嬉しい再会とそうでない再会があるかもしれない。
人生の中で出会う人は、わりに多い方ではないかと勝手に思っているので、十年前の人間関係は、遠い記憶となっていることも多い。物理的に近くにいるからと言って、近い関係でいられるわけでもないし、遠くにいるからと言って、心理的距離が遠いわけでもない場合もある。
信じていたのに、なんて言葉もあるかもしれないけれど、互いの成長の仕方が違えば、それこそ、再会して、当時の自分と相手の関係性で、やっていけるわけもなく、それを持ち込んで、片方が嫌だと思えば、おそらく、その関係は、終焉を迎えるか、あるいは、違った関係になるのだろう。
相手が変だと思うのは、かつて自分が無理していたことの証左であるのかもしれないし、もしかしたら、自分の成長のせいかもしれないし、立場が変わったせいかもしれないし、過ごしてきた年月に身に着けた何かかもしれないし、何が理由かはわからない。
ただ、自分が、信じていたことを、大切な人も、私が信じているものと思って、信じたままだとしたら、ちょっと嫌かなあ・・・。
私が、かつての思いとは違うということだけは伝わらないかなあ、と思っていたりするのだけれど。
嬉しい再会もある。
ああ、自分が、この人とこんなふうに話せるようになったんだなあ、なんて、自分の成長を確認することのできる再会もある。
もうすぐ再会するかもしれない人がいる。
その人と最後にあったとき、「また・・・。」と言われた。
私は、その人と再会できる自分になるために走ってきたと言えるかもしれない。
同級生で、しかも同じ世界に住む人である。転勤もあれば、転職もありうる。別に私が転職したわけでもないけれど。
やむを得ない理由で、お会いできる立場ではなくなって、でも、互いに尊敬しあっていたと思われるその人に、もしかしたら、再会する機会が訪れるかもしれない。
「今、私、シェークスピアの『テンペスト』読んでるんですよ!」なんて、白水社の小田島雄志訳の緑と薄い黄色の本を見せた。むしろ、あちらのご専門だったのに。
冗談めかして、「素晴らしい!」なんて言われて、私も落ち込み気味だったから、褒められることを期待して、元気です!と言わんばかりに、見せたのだった。
あちらの、「また・・・。」という再会を希望するお言葉を忘れずにやってきた。
同じ時期の人間関係に、がっかりもさせられるが、喜ばされることもあるのが、人生というものだろう。