一応、教育者として・・・。


どうも若いときから、「先生は、教育の話になると、話が変わるのよねー。」と言われるほど、どうも、教育に関しては、譲れないところもあるし、常時、アンテナを張っているところがある。

プライベートでの人間関係なんて、引けるだけ引く。そんなに主張する気もない。その代わり、周りがあれこれ世話してくれるところもあって、とろくても大丈夫。

ところが、こと、教育の話になると、目の色が変わる。

あの、大経営者、稲盛和夫大先生のお言葉、「ド真剣」が、やたら現実味を帯びて、私を襲ってくる。全身全霊で、ことに当たってしまう。その時のその他の心配事も、その他いろんな厄介なことも、楽しいこともぶっ飛んで、体当たりである。

もともと、教育が好きだった。だから、日本文学を専門としながら、心理学関係の講義をたくさん履修した。それもあるだろうが、新卒で赴任した中高一貫校が、これまた、人を育てることにうるさい?学校だったので、それに、学問ばかりで、実際の用にたてない人材を嫌う傾向にあったので、おのずと、自分がどういう人間であるか、また、どういう風に人を育てるべきか?ということに、敏感すぎるほど敏感になった。

そばにいてくださった、小学校の校長先生の奥様が、三人のお子様を、勉強面でよくできるから、「だから危ないのよ。」何ておっしゃるものだから、いったい何を言っていらっしゃるのか?とよく考えていたものだった。芸術家の血筋でもある、その奥様が、高校部の生徒(つまりはかつてのダンナ様の教え子)について、決して成績優秀ではない生徒のことを、ちょっぴり偉そうに、「あれは大物だね!」なんて、ちょっとわざわざあまり上品ではなく、姉御風に評される。「いったい、何言ってらっしゃるんだろう?」と、その学園内では、標準語だったので、頭の中も標準語で考えていた。

器の大きさ、のことをおっしゃっていたのである。

それと共に、目上は絶対だった。年長者。それから、職責について、目上は目上。兄弟でも、長子の方ができなくても、下の子がバカにするようなことを言ったら、それは、強い𠮟責の対象となった。先輩は先輩。最近、私がよく生徒たちに訊かれる、「○○さんって、すごくできますよねー。」なんて言葉も、成績だけで決めるような判断の仕方は、あまり好まれなかった。

だからかな。私が、生徒たちの質問の仕方に戸惑ってしまうのは。

それから、つい、「何をもって、頭がいいって言うの?受験は、頭の良さより、どれほど努力したかを問われるとおもうんだけどなあ。」なんて、つぶやいてしまう。

私は、大学を出て、すぐに教員になった。しかも高校部。

22歳やそこらの、何も世間を知らないひよっこが、先生と呼ばれることの怖さは、嫌というほど思い知っていた。しばらくは、誰かに訊ねられても、自分の職業が言えなかった。およそ人様に話せるような仕事をしているとは思えなかったのだと思う。

今だって同じ。

教師をさせていただいていることの、畏れおおさを、よく思う。

友だちなら、絶対偉そうになんてしたくないが、教師としての立場が、自分を生徒たちより、指導者として、立たせなければならない。

性質的に、正直、人の後からついていけるものならそうしていたい。

子どもたちが、教師をばかにしたら、もう、指導はできない。信頼できない教師に、お金を払って、時間をかけて、指導してください、と言ったら、それは、もう、矛盾に満ちたものとなる。

仮に教師が至らなくても(本人が至らなくていいと思ったら、それはおしまいではあるけれど。)、師として信頼できなければ、それは、もうやめた方がいい。

もしも子どもたちの前で、先生の非難をしつつ、預けるのであれば、子どもたちは、結局、大事な成績を上げるために通っているところの先生について、信頼できないのだから、ものすごく能率の悪いことになる、などと、それは、孔子さまの論語ではないけれど、と目上を尊ぶあり方を教えられたのである。

だから、入塾されるにあたって、という書面には、躾めいたこともいたします、としっかり書いてある。

先日から、この、私の姿勢について、追い風で、仕事が追いかけてくる。

先生、お願いですから、○○してください。頑張ってください。

遠く秋田から、大阪から、東京から、私に頑張れ!もっと仕事してください!とあれこれ叱咤激励の言葉が、電話を通して送られてくる。

あまりに熱の入った電話に、「要するに、私に、もっと頑張れって言うことですね?」と訊くと、「そうです!」と言い切られる始末である。

それも、あちこちから同時に、同じ趣旨の電話、あるいは面談?

挙句の果てに、あちこちで、私の話をしているらしく・・・。

しかも、「櫻井先生は、こんなに頑張ってるんですよ!もっと先生も頑張ってください!」って、私の行ったこともない県の先生方に、仕事をさせている?方もいるらしい・・・。

まあ、富山県のことをめちゃくちゃ褒めてくださったから、喜んで、仕事しますけど。

などと、私は、自分の首を絞めるようなことを自分でしながら、周りからも、あれこれ言われているのである。

いったい、何を言っていらっしゃるのか?と思っていたら、どうも、初任の高校で教わったことが、どうも、世の中の人が求めていらっしゃるものと一致しているようで・・・。

育ててほしい、子どもたちを、理解してほしい、ということのようである。

時折、身を切られるような思いで、生徒を諭すことがある。

どうぞ、この子に、私の真意が伝わりますように、と祈るような気持ちで。

親御さんも、理解してくださって、お子様の精神的な成長につながりますように。

自分の生徒を本気で憎むことなんてできない。それでも時折、芯から怒ったような顔して叱るときもある。

決意して叱るときもある。

受験は、怖い。

勉強面だけではない、ある意味、人が問われているなあ、と思わされるところがある。

不思議な合格をたくさん見てきた。

稀にではあるけれど、その反対も。

そうして、不思議な合格には、なぜか、必ず、周りのみんながどこかで納得する何かがあることも感じてきた。

このままでは、合格できないなあ、と感じる何かがあるとき、私は、時折、全身全霊で、決意して、諭すことがある。私の想いが、どうぞ、届きますように!

受験がすべてでなんかない。

でも、行きたいと思うところがあるのなら、合格できるだけの自分になりたいものだ。合格できるだけの力を身に着けてほしい。

それは、勉強だけからでなくてもいい。

音楽を通してでも、スポーツを通してでも、そうして、日々の自身の在り方からだって、自分の力を養うことはできる。

私も、生徒の皆さんと共に、保護者の皆様と共に、毎年受験を通して、成長させていただいていると思う。

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