トラちゃん(実はM先生)
ここのところ、アシスタントさんや先生とお昼を食べることが多い。
ある日、生徒の指導中、ぼそぼそと、M先生が、「トラちゃんや・・・。」と言っている。よーく聞いてみると、「風天の寅さんになれないから、トラちゃん。」と自分のことを言っているみたいである。あちこち旅をしようと思っているのに、なんだか飛び立てないご自分のことを言っている。
それが可笑しくて可笑しくて・・・。
自分でそれ言うか・・・?
と思いながら、なぜか、トラちゃんの響きが気に入って、「ねっ、トラちゃん?」と言っていたら、「なんか可愛いですよね?」とご自分でも気に入っているご様子。
生徒の前で、「トラちゃん。」と言うと、照れながら、なんだか喜んでいる様子。
だから、M先生のブログにあった、私が付けたというのは、ウソである。
ついでに、自称女源氏ではなく(これは、生徒にしっかり裏を取った。刑事モードで・・・。)、あくまで他称女源氏である。だって、私の方に、あなたが・・・、という気はないもーん!ただ、素敵な女性が現れると、ちょっぴり褒めたくなるだけで・・・。
今度、素敵な女性と素敵なカフェに行く予定。これは絶対。
それから、デートのお約束は、いくつかあるので♡これも女性。
確かに女性を口説くのはうまいけどね!でも、他称である。あくまで他称。女源氏。
発達の仕方が違う生徒さんと出会って、しんどくなったM先生の実習時代の話があった。
M先生は、生徒の、精神的な部分と付き合うのがお上手だなあと思わされる。私の、競争して、O先生と、何とかして、今年、合格させて・・・、というのとは違う部分をうまくケアできるような優しさをお持ちの方である。
その分、はっきりしない、私にとっての困ったちゃんになり得るわけだけれど・・・。優しさと、ある意味の優柔不断さとはときに同居するものだと思う。
私も若い頃は、なかなか決断できない面があった。そう、今もよく言われるけれど、優しすぎる面があった。でも、就職して、あるいは親になって、決断しなければならない場面が多くなって、結局、どちらを選ぼうと、選んだことに意味があるのではなくて、選んでからどう生きていくかに意味があって、その生き方の先には、選択などというものはさして意味をなさないと思うようになった。
選択するのは事柄であって、その中身を決定するのは自分。
ただ、目標を決めて、それを到達しようとして努力する人をサポートしたいし、応援したい。努力することによって向上することを信じているし、何かを乗り越えることから得られるものは多い。
でも、落ち着き先が決まったら、そこで頑張ればいいと思っている。
就職にしたって、些細なことから始めても、小さなことから学ぶことは多くて、それを習得したら、その次のステップが来ると思う。
先日、ピクニックに行ってから、生徒さんは、とっても明るくなった。
正直、M先生のお力だなあ、と感謝している。
その人、その人にしか出せない持ち味というものがある。男性か女性か、というだけでも変わってくる。私は、お父さんにもお兄さんにもなれない。
あのピクニックの日、私だけでは、絶対、生徒さんを明るい笑顔にする力はなかったと思う。
実は、写真のラーメンは、うちの教室にとっては、「必勝のラーメン」。このラーメンを出前で食べたメンバーは、合格するというジンクスがある。またまた合格するといいね!