劣等感?
- Mayumi Sakurai
- 2016年9月3日
- 読了時間: 3分

午前中、中三国語の指導をしていて、「優越感」という言葉が出てきて、よく聞いてみると、意味を分かっていなかったので、調べてもらった。対義語も問う設問があったので、「優越感を感じるとき」、「劣等感を感じるとき」ってどういうときか?と考えてもらった。
「点数?」なんて、すごくシンプルな答えが返ってきて、思わず自分も考えてみた。
優越感を感じるときは・・・。
実は、季節外れでおかしな話だけれど、冬の雪が降ったとき、誰よりも早く、誰よりも美しく雪かきをしたときは、優越感だった!と思い出した。
では、劣等感は・・・?
考えた。坂道を登りながらではないけれど、漱石先生ほど深くはないが、考えた。
答えが出た。
不思議な言動をする人に出会ったとき(つまりは、価値観の違う人とであったとき。)に、なんでー?となって、対応の仕方がわからないとき、という答えに、自分の中で行きついた。
要するに、自分にきちんと対応する能力をどこかで自分に求めていて、それを解決する手段がないとき、無力感を感じて、どうも、自分のあるべき姿に、劣等感を抱くようである。
「言ってくれればいいじゃないですか?」と言われて、「あまりにびっくりして、言葉も出なかったから。」と答えたことがあった。あまりに品性がないと思われる行動に対して、唖然。で、言葉が出なかった。
そうして、しばらく時間が経って、それを何とか受け入れようとしたがダメで、とうとう話した時のことだった。
初め、嫌悪感を抱いたことに対して、何とか受け入れようと努力する。だけど、嫌なものは嫌だし、感性的に受け付けないものは、どれだけ思考をフル回転させて、なんとか受け入れようとしても、ダメなのである。
だから、私は、嫌なものを嫌、と言えるようになりたいなあ、と最近つくづく思ったのである。
いい子ぶりっこかもしれない。
そういう世代である。
なにかによって、人を区別してはいけない、だから、誰とでも仲良く、それぞれに、生まれ育った環境があるのだから、とか何とか理解しようと思うけれど、最近、無理なものは無理だと気付いた。
周りも、それはダメ!と言った。
だから、マナー違反までは受け入れないことにした。
教育者として、指導するべき立場の生徒には、しつけもするけれど、大人に対して、そうそう寛容にならなくても、それは違うでしょ!と、面と向かって言わなくても、こころで思うくらいいいや!と思い出した。
嫌悪感を抱く服装がある。
夏に、下着が透けて見えるような服は嫌いである(限度がある。ある程度は仕方がない。)。だから、そういう服装の人も好きではないはずなのに、私は、立場上、仲良くしなくちゃと頑張っていた。そうして、ある日、何が嫌なのかが分かった。
金銭的に、きっちりしていない人も嫌である。得をすればいい、とは考えられない。人はどうでもいい、自分さえ得をすれば、という考え方は好きではない。対価は対価。内容と対価は、合致していなくてはいけない。おいしい仕事もなければ、おいしい指導もない。第一安ければいい、というものでもない。安くて、中身が悪くてはいけない。
だから、教室もwin-winを目指す。生徒さんも保護者の方も先生方も、完璧に、とは言えないまでも、私はできるだけみんなが楽しく幸せであることを望む。自分一人がよかったらいい、という考え方は、教室には馴染まない。
先日、中二生で、本当に精神的に成長したなあ、と思った生徒が言った。
「確かに、この塾、自己中の人、おらんよなあ。○○くん!」と仲良しのお友達の肩をたたいて。
つまりは、自己中心的な考え方が、合わない、ということだと思う。
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