ついでにサル子


北陸に来て、雪の多さを実感したけれど、何より、冬場、あまり外に出られそうにないのを心配して、私は、生協さんで、上の子のために室内の遊具を買い込んだ。

鉄棒にブランコがついていて、つり革のような輪っかがついている遊具である。マンションの小さな今にも置くことができて、そうして、幾分コンパクトにしまうこともできる。ひどいときには、洗濯物を干したりして・・・。笑

一番の思い出は、・・・。今でもその光景を思い出すとおかしくなるのだけれど、まだ一歳くらいの娘につり革の輪っかを持たせて、ぶら下げるのである。そうして、私が、お猿さんのようにする、という意味で、「サル子!」と言うと、娘は、まじめな顔をして、「私はサル子をしなければなりません!」というように、一生懸命手を曲げ足を上にあげ、お猿さんのように体を持ち上げるのである。その顔を真っ赤にして、真剣な様子がおかしいやら面白いやら。根が真面目なんだろう。なんだか、面白がって子育てしている新米ママの言うことを素直に聞いて、「サル子」していた。そうして、ママは、体を鍛えさせていた。

身体の大きな高校生が何十人もいるクラスの指導をしていて、若い娘時代に苦労した経験から、赤ん坊一人と時間を過ごすのは、ある意味穏やかでゆとりのある時間だった。何も生み出していないのではないか?と焦ることがなかったわけではないけれど、結構遊び心いっぱいで、楽しんでいた。

少々泣いても、なんでこの子、泣いてるのかな?と観察したり、自然と声を掛けていたらしく、若い奥さんからは、「余裕ですね。」とか、「絶対子育てに向てますよね。○○さんなんて、○○君が泣いたら、オロオロしてますよ。」なんて言われた。本人は、気づいていなかった。余裕なのか、のんきなのか、そんなもん、自分でもわからない。母に言わせれば、あなたのような母にはなれない。絶対のんきなんやと思う、だそうで、絶対そっちのほうが正しいのだと思う。

それよりも悩んだのは、教師をしていたから、自分の子供の行いに、変に客観的過ぎて、母として、盲目になり切れないのではないか?ということだった。

仮にいじめにあったとして、訳も分からず、わが子を守るのが母親だとしたら、私は失格かもしれない。かつて中学校で、ちょっとしたことに巻き込まれたとき、これに私が先生に相談して手を出して、解決したところで、彼女は自分で乗り越えたと思うかしらん?と思って、毎日相談に乗って、様子をうかがっていたことがある。一週間ほどして、何も言わなくなったので、乗り越えたのかなあ、と思っていた。家庭訪問の折に、担任の先生にお話を伺ってみると、結構大変な想いをしていたそうで、でも、しっかり自分で乗り越えたらしい。あまりのひどさに、彼女のお友達が、担任の先生に訴えに行ってくれたけれど、担任の先生としても、本人が音を上げないし、手を出していいものかどうか迷っていたら、自然に治まって、と言ってらした。「あるいはうちの娘がわがままで、相手のお嬢さんの目に留まったのかと思ったりもしたんです。」と言ってしまったら、「それはありません!」と言いきられた。たくさんの人とぶつかっていた女子生徒の一人に目についてしまったらしい。そんなとき、本当は、自分の子を庇いきるのが親なのかなあ、変に客観的過ぎるのでは?と悩んだりしたっけ。本人にもプライドがあるだろうし、いじめられた、という言葉には、確かに屈辱的な響きもある。どうすればいいのか悩むところではある。

時折、「母親だから、何が何でもわが子の味方になってやらんなん。騙されていても、信じてやるのが母親やから。」とおっしゃる方がいらっしゃって、振り返っては、いろいろ考える。

母になったら、子宮が痛む、とか、親としての想いを、うまく表せる方がいらっしゃる。

日本人は母親原理的、アメリカ人は、父親原理的、などと評される精神分析家もいらしたけれど。

たぶん、答えなんて出せないのだろう。

とりあえず、どんなことが起こっても、自分自身の力で乗り越えていってくれることを祈るばかりである。

人間関係の中でしか生きてはいけないのだから。

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