誠意?
教師として、何か、まあ、教育活動をするとき、何かに対して、できるだけ期待をしないように努めている、と言ったら言い過ぎだろうか?
もっと言ったら、誠意が通じることを期待しないようにしている、と言ったら、私らしくはなく、えらくクールに見えるだろうか?
昨日、ある生徒から、あまり嬉しくはない話を聞いた。現在在籍していらっしゃる生徒さんのことだとか、ではないのだけれど、そうして、まあ、その生徒さんが、何か思っているのではなく、むしろ、それは違うやろー、と言った、という、ちょっぴり嬉しい話でも合ったのだけれど・・・。
一教室として、チェリー・ブロッサムでの教育活動をしてはいるが、そうして、立場上、経営もさせていただいてはいるのだけれど、でも、何か大きな岐路に立ったとき、思わず、一教室としての在り方、とか、メリット、とかはぶっ飛んで、とにかく、もっと大きな教育、というものに、頭を下げ、間違った判断をしないように努めている自分がいるのに気付く。
その子の人生、というもののまえに、自分の評判や、どう思われる、どう言われる、などということも大きく超えた、何かに、突き動かされてしまっていることがある。
そうしてした選択ではあっても、やはり揺らぐことがある。
相手のためを思ってした言動。身を切られる思いで、勇気を出して言った言葉。今の相手に伝わるはずはないと思いながらも、でも、仕方ない、と思ったことを理解されないとき、人間だもの、やはり、どうしようもなく寂しくなることもある。
今朝、ちょっと関わってくださったM先生に連絡を取ってみた。先日はO先生にお話してみたが、O先生は当事者ではない。
昨日の件を話してみる。
「僕はなんとも思わないですけど・・・。」
でも、まあ、私の気持ちは察してくださっている様子。
事務連絡をして、電話を切ろうとしたとき、「あっ、ちょっと待ってください。でも、彼は今、なんにせよ、揺らいでいるってことですよね?」と言われた。その一言が効いた。
その一言で、M先生の言わんとしておられることが通わってきた。そうして、M先生と出会ってから、若いけれど、教わることが多い気がしていた理由を、即座に悟った。
そうだった。
一教室がどうの、というレベルではなく、彼の人生を思って、M先生がずっとおっしゃっていたことの意味を理解して、私が決断を下したのだった。
生徒が自分の意志で動いてくれるようになることを願って、教室のことなんか考えず、いつか伝わるように、決して私たちのためではなく、彼のためを思って、彼の人生を思って、決断したのだった。
今、彼が、もし、なんかおかしい、なんか変だ、と気づいてくれる、あるいは、揺れたり、葛藤してくれているのなら、いつか、彼は成長してくれるだろう。自立してくれるだろう。
M先生は、彼に、しっかり自分で考えてほしかったのだった。
わざわざ、自分になんの得にもならないけれど、教育のために、わざわざ損するかもしれない提案をしてくれたのだった。
どうなろうと、一人の生徒さんを思って、少なくとも、M先生と考えたことを実行したのだった。
何か月も何か月も、一緒に工夫し、何とかならないかと考え、やはり、引き伸ばしてはいけないと考えたのだった。
M先生の言葉に少しは気持ちが晴れて、そうして、目の前にいる生徒さんの指導に精一杯当たらせていただくことに集中しなければ、と思った。
それにしても、教師と親は無償の愛。
見返りなんて期待するものじゃない、とはよく言ったもので・・・。
まあ、、言うなれば、自分を育てていただく、といった大きなギフトをいただくわけだから・・・。
皆様が、立派な社会人になってくれますように!
しあわせな人生を歩んでくれますように!
それにしても、今風に言ったら、ギリ親子で行ける年齢差のM先生の、深い想いには、ときどき呆れる。いや、私の未熟さに気づかされる。あああ。思考が深いというか、純粋と言うか・・・。なかなか、この人の本性なんてわかるもんではないな、と何度目かの驚嘆させられる出来事である。
とはいえ、ある一面では、年を重ねた私のほうが、当然、大人な面もあるわけで、「もう!ほんとに子供ですね!」と呆れることもある。そうしたら、M先生は、「子供でも仕方ないじゃないですか?」ととぼけた津軽弁でおっしゃるのである。それはその通り。たった、○年しか生きてこられてはいないのである。
それにしても、できの違う人は存在するようで・・・。
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