たぶん。
今日は、なんだか国語の授業をした気がした。というか、最近、ことさら国語の素晴らしさを実感するようになってきた。
そして、嬉しいことは、遠くから、わざわざ私を頼りにして来てくださる、生徒さんや保護者の方がいらっっしゃることだ。それも、ただの教科指導ではない、親御さんとしての想いを伝えてくださって、お子さんの気持ちとの、まるで橋渡し的な役割をさせていただいているような気がする。両想いの男女のすれ違いを、なんだかわからないけど、スムーズに気持ちのやり取りができるように、みたいな役割をしているような気がする。親御さんも、お子さんも、どちらもお互いを思い合っているのは同じである。
今日、中学校二年生の国語の教科書を読んでいた。定期テスト対策ではあるが、一緒に読んでいて、私は、目がウルウルし出すほど、その内容に感動してしまった。人間っていいなあって、久しぶりに、なんのためらいもなく、実感することができた。こんな文章を読んでいて、日本の中学生が悪い子に育つわけがないじゃない、とまたまた、国語に感動してしまった。
生きているって素晴らしいことだ。悲しいことも起こる。だけど、その悲しさの中でこそ、人の思いやりをたくさん感じられることもある。そして、その悲しみからしか見えないものを見る資格を得る人もいる。
悲しみをいっぱい感じてきたからこその優しさを持っている人もいる。
その優しさを、今度は人に悲しい想いをさせないようにという方向に持っていける人を知っている。こよなく尊敬し、こよなく愛する人。ただ、勝ち続けてきただけでは、見えない何かがある。そして、その自分の持っている才能に気付きもしないで生きている人もいる。
もしも、教師という仕事が、その子その子、一人一人の才能(学術方面だけではない。)を伸ばしていける仕事になるのなら、本当にいいなあ、と思う。
何かに対立するのは簡単なことだ。体制であったり、決まり事であったり。でも、いろいろな制約のある中で、たった一つ、目の前にあることだけを一生懸命に取り組むことだけはできるはずだ。そんなとき、目の前の困難が、余計に自分を磨くカギとなることだってある。それに、相手を理解しようとすること。批判したり、対立するのは簡単だけれど、自分だったら、同じ立場だったら、もしかしたら同じような想いになったり、同じようなことするかもしれない、とちょっと理解を示してみる。同じ人間なんだから。絶対いつかは理解、和解ができる。大きくはできなくても、小さな人間関係から、小さな理解はできる、なんていう、中二国語のお話でした。日本の教育も、本当は捨てたもんじゃない、はずです。
私は、学校の先生に、批判的な想いを抱くことができない。元教員で、その大変さを知りすぎているからかもしれない。むしろ、ついつい理解を示してしまう。してあげたくても生徒にしてあげられないことがたくさんおありなんだろうな、なんて思ってしまう。
私は、したいことがたくさんありすぎて、教室を開きました。