自分のいる場所、そしてかつていた場所
以前このブログに書いたように、私はいろいろな場所で修業をしてきました。
その場所で働いていたその時期、そこでいろいろなことを教えていただき、入った当初は、もう馴染むのに必死。その職場について意見をはさむ暇もなく、自分が、その場に合わすために、とりあえず、今まで働いてきた経験も何もかもリセットして、その場に自分の方が馴染むように努めてきました。もちろん、年とともに経験が重なって来ていますから、自分の方はリセットしているつもりでも、周りから見たらそうでなかった可能性もありますが、とりあえず自分ではリセットしているつもりでした。そりゃあ、国語の指導の仕方を変えろと言われたら、限界はありますが、まあ、そういうつもりできました。
だってもったいないではありませんか。自分のやり方だけなんて。新しい場所で、新しいやり方や、人間関係のあり方などを学ぶ方が、自分自身の幅が広がります。でも、馴染んだかな?という時期になると、今度は、自分自身の考え方や、やり方を表現していく時期がきます。
新卒で、教員として勤めたときは、先輩から、「1年目は、先輩の言うことを聞いてついていくのに必死。2年目くらいから、だんだん見えてくるのよ。」と言われたり、「1年目は、来た仕事すべてをやってみるべきだ。2年目になって、これは引き受けよう、これは断ろう、と選択すればいい。」つまりは、仕事を覚えるチャンスは逃すな、ということのようでした。
私は、自分の働いてきた場所に、仕事が好きな分、愛着があって、こういう風に改善した方がいいなあ、とかこれは良くないなあとかいろいろ考えました。むしろ自分のためというより、もう少し大きく考えていました。そして、その場所を離れても、そう、学校や会社を離れても、自分が、お世話になった場所を忘れることはありませんでした。自分がいる場所、かつていさせていただいていた場所には、本当に愛着があり、置いてきた生徒さんのこともいつまでも気に掛けていました。
街を歩いていると、よく声を掛けられます。こちらも声を掛けますが・・・。中学生だった生徒さんが高校生になって現れて、こちらがびっくりしたりします。大人になって現れると、その変身ぶりにやっぱりびっくり。
それとともに、そこを少しでもよくする人間でありたいと必死だったことを想い出します。必ずしも、周りにすべて理解されていたわけでもないのかもしれないけれど、私なりに必死だった、そのときそのときを思い出します。
阪神淡路大震災の時は、まだ神戸のあたりに生徒がいた時期でしたから、かなり心配しました。でも、辛いことは何も耳に入っては来ませんでした。
そして、最近気付いたのですが、私は非常にラッキーな教師で、長い教師人生の中で、教え子の死に対面したことがないのです。さすがに年が年ですから、先輩や、同僚の死には、早くから対面し、その都度かなり辛い想いもしました。でも、教え子の死に遭ったことがない、というのは、かなり幸運です。
自分がお世話になったところは栄えていってほしいと思います。そして、たくさん生徒さんを育てていっていただきたいなあと思います。たくさんたくさん勉強させていただいた場所ばかりですから、やはり良くなっていってほしいと思うのです。そして、私は、あちこちで学ばせていただいたことを基に、今は自分らしい教育活動をしたいなあと思っています。みんなが同じでは面白くありませんから、ここはここ。この教室でしかできないことをやるし、また、そういう教育方針が合っている人に集まっていただきたいと思っています。