類型論が苦手
初めて勤めた学校では、何かというと、まとめて、一般化して、抽象的に類型化して話すことを嫌われました。つまり、「教育は、個別具体だ!」というわけです。若い頃は、特に、話の内容をまとめてしまう癖があると言われ、徹底的に、まとめずに話すよう、心がけました。
○○って環境の子は・・・、なんて言い出すと、そばにいる先輩に叱られるし、私なんかより、ずっと、何かにまとめて話す先生は、あまり職員室で好かれませんでした。
その後、子育てをしたり、いろいろなお付き合いの中で、一般化した話って、誰にも通じないんだなあと
実感しました。事柄ではなく、気持ちを伝えなければ、わかりません。
ただ、私は数字を信じている部分があって、自分のした仕事は、数字に的確に表現されてしまうと思っています。努力も数字に、ある程度は顕れると思います。
ただ、大学に入ったばかりの学生さんの想いなんかを聴いていると、ときどき、暗澹たる気持ちになってしまうことがあります。自分の置かれた場所が、人生のすべてを決めてしまうかのような表現。たとえば、○○の大学に入れなかったから、不利だ、とか。不利だと思えば、その不利を跳ね返すだけの努力をすれば?と思います。お金のあるなしも、もちろん条件の一つですが、だったら、ないことの利益を考えてみればいいと思います。ないから、アルバイトする、生活に工夫する・・・。そして、その経験を胸張って話せるようになるまで、努力する。ないものをいつまでも追いかけていても仕方がありません。
卒業して、いろいろな就職先で、また、一からスタート。何が好かれるかはわかりません。京セラの稲盛和夫さんは、学歴のあるエリートを嫌う一面もお持ちだったようで、自分のアイデアを、そうですね、そうですね、と言ってくれる、ちょっとおっちょこちょいの人をそばにおいておき、実行の段になったら、いろいろな場面を想定できる、いわゆる高学歴の人を周りに置いたそうです。
いろいろな経験を経た今、若い人たちの、悩みや発言が、おかしくも、可愛らしくも、一面真理、と言えなくもないけど、でもなあ、なんて、結局、人生をわたってみて実感せざるを得ないことだらけで、いらんおせっかいを焼くのはやめよう、と思うのですが・・・。まあ、悩んで、何が本当か、自分でつかんでいくのが、人生、というものでしょう。
ただ、たった一つ言えるのは、自分が、自分で認めていないものは、人も認めてくれないということです。少々自惚れるくらい、自分のことを好きでいる方が、いろいろうまくいくみたいです。