高を括る人が嫌いかもしれません。
私は、特に人の思いに高を括ることが好きではないし、人の高を括るというところを見たくもありません。
というのも、私の思いに、言わば高を括る人が多いということなのだろうと思っています。
私は、自分について、おかしな考え方をしているところがあるようです。
幼稚園の時から、友達の定義がわからなくて、幼稚園バスの中で、誰かの名前が出ても、その人を友達と行っていいのかガわからなくて、○○ちゃん、友達なん?と訊かれても、う、うん・・・?と答えているようなところがありました。
今でも知り合い、という点では結構、その人と知り合い、と言っていいのか?と悩んだりします。
誰かの話題になったときに、その人の記憶の中に自分がいるのかどうか、私は戸惑い、その人の話をしてもいいのかどうか悩んでしまうこともあります。
先日、ある人に、私の母の手術についてお話しました。
今日、母の手術があったんです・・・。
と言ったら、びっくりされるかな?と思っていたら、
ああ、そうやったね。
と言われて、エッ!?となり、それから、なぜ手術するのか、どこでしたのかをお話する羽目になりました。
こういうことがあるから、その人の記憶の中に自分がいるというような自惚れめいたものは持ちたくないので、誰かにお会いしても、相手がたくさんいるという方の場合は、ご挨拶するのもためらわれます。
子どもたちの学校の先生にも、覚えてもらえているかどうかわからないのに、と思い、ご挨拶は、サラッとさせていただいていました。
自分だって、学校に勤めていた頃、家族と歩いていたときには、先生、夏休みにお子さん連れて歩いておられるのを見ましたよ!と言って、休み明けに何かの折に書いてくれている生徒がいて、ああ、それなりの気遣いなのだなあ、と思った次第です。
相手がたくさんおられる人には、ご挨拶するタイミングが難しいな、と思います。
私は特に、親しい、と思ってもらえることが多く、ときに戸惑うことがあります。
そして、以前、女光源氏、と自称していたように、私が思っている、それも一番思っている、と思っていただいている方が多く(そう思って、あるいは思っていただきたくて?)そういう素振りをしているわけでもないのですが、そう思っていただくことが多く、ときにそのことを周りの人におっしゃって、戸惑うことがあります。
友達だと思っていたよー、と言われて、決して迷惑、というのではなくても、そうだったの?と思うこともあって、どこからどこまでが友達なのかわからない時があります。
顔が広そうに思われ、いわゆる若い人たちの言う、陰キャだと自分では思っていたのに、生徒たちは陽キャだと言います。
どうも私の私像は、人の私像とは違うようです。
母など、あなたのあらゆる問題はそこに端を発している、と言ってのけます。
あああ、わからない。
どこからどこまでが友達で、どこからどこまでが知り合いなのか。
かつて、若いころ、それこそ友達と占いに行ったとき、
あんたは完璧主義やから孤独やねん。周りに人がたくさんおってもわからへん。
というようなことを言ってもらって、仲の良いその友達は大きく頷いていました。
若いころへの感覚も、友人たちと私では、私を取り巻いていた状況を、見ている目が違います。
今でも認識の違いに驚くことがあります。
私は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の登場人物のうちの一人である三人兄妹の真ん中っこのイワンの気持ちに激しく共感します。
誰の愛もそうそう感じられなかったイワンは、勉強にある意味逃げます。その感覚が私にはよくわかるのです。
しばらくぶりに読んでみたい。若いころと違って、また違うものが見えてくるだろうと思っているのですが、大作なのでなかなか難しい。
いろんな人に言われることを要約すると、どうも、もう少し高を括ったら?ということに尽きると思います。
今も、どこか自分に厳しい人に惹かれるし、表現はともあれ、誰より自分に厳しいと言われることもあります。
はたから見ている分には、女性は少々うぬぼれていた方が素敵だなあ、と思っているのです。
それが華やかで、なかなか煌めいたあり方だと思います。
事実なんてどうでもいい。真実もそれはどうにでも語れるからどうでもいい。
もう少し遊びの部分があってもいいのかな、と思っているのです。
どうも窮屈な生き方をしているようで。(笑)