素敵な発見ー自分に勝つこと

車で教室に入ろうとしたら、教室の前の道路沿いの桜の木の剪定をされていて、入ることができなかった。
最初、クラクションを鳴らして、気づいてもらって、指で、入るんですけど・・・、という仕草をした。
そのときは、私は、後続の車のことなどを考えていて、きっと慌てていたのだろう。
その後で、片付けておられる作業員の方の表情を見て気づいた。
迷惑がられている、と感じられただろうし、私も、いくら何でもクラクションで、合図するなんて、と失礼だなあ、と思った。かてて加えて、教室の前の木の剪定をしてくださっていたのだった。
昨日だったろうか?
ちょうど、この桜の木、枝が茂っているなあ、と思いながら眺めていたのである。
気付いて、すぐに車から降りて行って(そのときには後続の車のことなど忘れてしまっていた。)、「どうもすみません。お仕事、終わっておられたんですか?ご迷惑おかけしたのではありませんか?」と訊ね、謝っていた。
そうしたら、ちょうどそのとき、その方も前方に進んで作業をされるところだったらしく、「ちょうど終わるところだったんで・・・。」とかおっしゃって(そういう内容だった。はっきり覚えてはいない。)、白い歯を見せてにっこりしてくださった。
そこで思い出したのである。
余裕のない生活をしているということに。
いや、気持ちの面である。
数年前から、実はどこか、仕事を楽しめなくなっていた。
いや、ブログにも書いているように、楽しんでいるけれど、昔のように、ではなくなっていた。
いろんな人の顔が浮かぶ。
コロナのためなどではない。
教師としての自信を失うというような出来事があったのである。
もう少し突き放して考えられたらいい。
今ならもう少し、幅のある考え方もできるのかもしれない。
もう少し人間というものを理解できている。
その事件だって、十分、人というものを知る経験をさせてもらった事件だった。
事件、と言っても、何か損失を出した、とか、実害があったとかいうものではない。
もっと精神的な、教師としての自分が揺らぐようなことだった。
その後、もっと人を知るというような機会がたくさんあった。
かなり大人になったとも思う。
でも、それは、相対的なもので、自分の成長と共に起こってきたことなのかもしれないと思うようになった。
ときに自分の考え方を変えるのに、思考のフレームを変える、というようなこともする。
認知の仕方を変えてみたりする。
それでも、どこかで痛んでいたのだろう。
世の中はコロナの話題、あるいは、違うことでも大騒ぎだというのに、どうも私は、自分の仕事に関わって、しかも経営とかそういうことよりも、人と人との関係性においてのことに、どこか重点を置いて、どんよりしていたのである。
よく言う。
私の仕事、教師としての仕事を、たとえ、生徒さんご本人であろうと、邪魔するようなことをしたら許しません、と。
そのお子さん、そのお子さんに必要なことを、これでも必死でやっているのである。
それなのに、自分自身が押しつけがましくあろうとは思わないにしても、生徒や卒業生が、自分の心に負けてしまう姿を見るのは嬉しくない。
そう、自分の心に負けてしまう姿。
もっと不遜な言い方をするなら、私が着いていたのに、なぜ?と思ってしまったのだと思う。
責めていたのだろう。どこかで自分を。
それでも、経営者だから、と勉強もしてきたし、その筋の先生のおっしゃることを聞いてその通りにしてみたりもした(だから、チラシも打ったりした。あまり感動のないチラシだったし、致命的欠陥があったのに、反応があったと笑われた。)。
そんなことではないのである。
疲れていたんだな、と先日ある人が指摘されたように、私自身も気づいた。
先日、ストレス度チェックだか、疲労度診断だかをやってみたけれど、夜など、ベッドに入ってすぐに寝落ちだし、そうそう大変な状態でもなさそうである。
ただ、信頼関係をぶちっと切るようなことが起こると、私は疲れる。
めちゃくちゃ毎日を楽しんでいるようでいて、心の底からではなかったのか・・・?
と思ってみるけれど、意外や意外。
診断やチェックでは何もないのである。
悩みたがっているのでは・・・?と言われた私は何だろうか?
でもとりあえず余裕をなくしていたのだな、ということだけは気づいた。
そう言えば、かつて一緒に仕事をしてくれていた先生が、チェリーでは、問題があっても、それが硬くならずに、柔らかく発展していくのが不思議でした・・・。
と手紙に書いてくれたことがあった。
その柔らかさがなくなって来ていたような気がしているのである。
その理由って、何なんだろうな、と思っていたのである。
とは言うものの、周りから見れば相変わらず仕事を楽しんでいるようではあるし、それは事実だと思う。
ただ、人に対して疲れているのかもしれないな。
価値観はそれぞれ。
ただ、とりあえず人に勝ちたい、勝っていることにするための説明など受けたくないのである。
私は、自分に勝って行ける人を育てているつもりなのである。
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