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立派なくれない族


してもらったことを感謝するか、それとも、されないことに不満をもつか、それぞれのタイプがあるだろう。

何をしても、○○してくれない、という人は、昔はたくさんしてもらったことのある人だろうか?

私は実はそうは思っていない。

むしろしてもらった記憶のない人が、何をしてもらっても、まるで心の枯渇を埋めるかのように、してもらっていない、を言い続けるような気がする。


小さいころ、愛情深く、いろいろしてもらってきた人の方が、してもらっていることの一つ一つをしっかりと受け止めているような気がする。

だから、小さいときには、愛情たっぷり、私はむしろ甘やかすくらいに可愛がって育ててもいいと思っている。


何をしても受け止めてくれない人っている。

今まで数人そういう人とお付き合いしてきたけれど、あまり今まで誰かにしてもらって来なかったんだな、と思わされることが多い。


親切にされた人が親切を返すのかもしれない。

してもらってない、という人って、誰かしてくれる人がいると突然かまってちゃんに豹変する。


話は変わる。

今日、おもしろいことを言われた。


先生はここの塾をしっかりと、言葉は悪いけれど、牛耳っているんです。牛耳ることができているんです。

だから、塾生は、しっかりけじめをつけている、と。


まあ、何とありがたいお言葉。

では、私は若いころ、子どもたちを牛耳ることができていたのだろうか?

と思ってみて、息子の太ももをバシッと、手の跡が付くくらいに叩いて、説教した日のことを思い出した。

世間では甘い親で通っていた。

あまり勉強しなさい、とも言わなかった。

けれど、ここだけは・・・、というラインを外すと、私が怒ることはわかっていた。

そうそう甘い親でなどあるものか・・・。


ママは○○したら怒る・・・、というラインを子どもたちは知っていたような気がする。


そう、私は、ここ、というラインを越えたら怒る。

それまでは思い切り譲歩する。


それと同様、仮に生徒さんに、ちょっと疲れている生徒さんが入って来られた場合、最初はできるだけ、言うことを聞くようにしている。

絶対に否定しない。

結構きついことを言われることもあるけれど、こちらが絶対的に受け入れるという姿勢と相手が認めるまでは絶対に肯定し続ける。

こちらの気持ちがわかった段階で、少しずつこちらの指導を入れていく。

こうした方がいいよ、とか、その先の見通しをお伝えする。


でも、相当にこじらしている場合は、何をやっても、また次、となることが多い。

これは大人に多いかな。


もう私ではどうすることもできないのかもしれないけれど、まあ、とりあえず努力してみたい。