牛耳ってる私?ー確か大学でも言われたことありますが・・・。(笑)
先日、ある生徒さんのおばあさまに、指導についてのご協力をいただこうと、おばあさまにお越しいただいて、面談をしました。
本当に指導に効果的なことならなんでも、そして誰でも使う私?
その中で、一緒に教室でご指導をお願いしたことがあったことから、私についてお話しいただきました。
それはほかのブログでも書いたことがあったのですが、なんでも、私は、経営者に向いているらしく、これは以前来てくださっていたアシスタントさんにも言われましたが、その特質をあれこれ話してくださいました。
その中で、まあ、普通は一教科だけしか教えないのに、あれこれ教えられるし・・・、とのこと。それも、まあ、たしかにどれも面白いのは面白いし、あっちこっちアイディアが浮かんで、こんなことしたら楽しいかなあ・・・、などと考えてしまうところがあります。
それよりなにより面白かったのは、もし、悪い表現をするなら、この教室を、しっかり牛耳っている、ということです、という表現が何より面白かったのです。
まあ、あの、思春期の男子たちを押さえているということでしょう。
ちゃんとけじめをつけている。
それも先生がいない時でも、しっかりそれを守っている、といってくださったのです。
母親のようにあまあまではないよー、先生は。
と言ってくださいました。
でも、保護者の方から見ると、私はご自分よりも優しいように見えるらしいのですが、生徒たちからすると、私の方がお母さま方よりずっと怖いらしいのです。
確かに、家の子どもたちにも、飲み物や食べ物などでそうそう抑制を掛けたりはしませんでしたが、大人の話に口をはさんだり、そこは違うでしょ、ということは絶対に許しませんでした。
勉強できるから、あるいはほかのことができるから、ここは許す、ということをしなかったのです。
で、なんでこのお話を二度も書いているかというと、かつて夫を通して聞こえてきた話をまた思い出したからです。
私は、大学3回生になる年に本当に大学の応援団吹奏楽部を辞めました。
理由は様々でした。
それはあまりに考えすぎて、理由が一つには収まらないくらいでした。
結論を出すときというのは意外にそういうものかもしれないと思います。
その前に、1回生から2回生になるときにも一度辞めていました。
これはやむを得ない事情がありました。父が病気をしたからです。
でも、幾分落ち着いてきたとき、私がむしろ病んでしまうような状態になってしまいました。
そこで、戻していただいたのでした。
随分勝手なことをし、大学の看板たる団体に迷惑をかけた身としては、所属していた、と言うことさえ憚られる話ではありますが、その時の先輩のお話が印象に残っています。
今年は一回生(私の一年下)がたくさん入ってきてくれて嬉しいけれど、何が嬉しいって、あいつ(私)が戻ってきてくれたことほど嬉しいことはない。
と、副団長の先輩がおっしゃってくださったそうです。
それを聞いた、先輩だった夫は、浅薄にも、
あいつ、やっぱりうまいかー?
と訊いたらしいのです。
そしたら、その副団長は、
いや、うまいかどうか?なんてことは俺にはわからん。
ただ、あいつがおると、統制が取れるんや。
と言ってくださったとのこと。
20歳やそこらの若い娘。それもコロコロして、とても統制などという言葉とは無縁そうな私についての、その表現。
いったい、何をおっしゃっていたのだろう・・・?と長年考えていました。
楽器をやるのだから、どうしたって音楽性や、うまい下手を語ることになりそうなのに、統制が取れる、とは?
でも、あるとき、こういうことかなあ・・・、と思ったシーンがありました。
応援団は野球応援が主な仕事でもあります。
別にそれで、というわけでもないし、私が勤めていた学校がそれはそれなりに野球で有名でなくもなかったけれど、私が在籍している間に目立って活躍してくれたわけでもないので、そのことに絡んでもいないのですが、音楽をしている、というかそれしかしていない私たちになぜか、運動が好きな息子がやって来て、もう、かけっこが速い、なんて奇跡みたいなものであると同時に、そのありがたみもわかっていたのかどうか・・・?
そんな彼は、なぜかご縁があって、小学校2年生から野球チームに入れていただきました。
学年で入ったのが一番だったという、そのことだけで、チームを引っ張っていく立場にもならせていただいたようです。それ以外の理由はないと思います。そうそううまくもなかっただろうし。
うまい下手を判断する力も正直なかったのです。
でも、練習や試合に付き添ったとき、まだ先輩方が試合に出ておられて、本人は応援する立場の時に、私たちが先輩の試合を一生懸命に見ていると、どこからか、聞き覚えのある少年のチームの応援歌が聞こえてくるのです。
ふと見ると、我が息子が、我がチームのために、一生懸命に応援歌を歌い出していたのでした。
そういうことが何度かありました。
恥ずかしげもなく、最初にやり出すのです。
ただ彼は、目立ちたがり屋なわけでもありません(目立ちたがり屋、と表現された先生もいらっしゃいましたが、私も似ているからわかるのですが、本人なりに、一生懸命なのです。本質的におとなしい人間だということくらい、母親だからわかっています。)。ただ、とにかく自分にできることは応援歌を歌うことだから、彼は精一杯歌っていたのです。
その姿を見て、先輩がおっしゃっていたことはこういうことかな?と思ったのです。
周りから見たら、計算に見えることもあるでしょう。
正直、私が、正直に謝って、自分がしたことを詫びたら、許してくれた、という話をしたら、大学時代の友達から、それは十分計算が入ってるわ!と言われたことがあり、なんで?と思ったことがあるので、そういう解釈をする人がいたかもしれません。
ズルいことをしたわけでもないのに、そうしたかのように解釈されたこともありましたが、たぶん、その先輩は私という人間の本質を見抜いてくださっていたのだろうと思います。
目立ちたがりだとか、計算、だとか、そういう解釈をする人にはそういう要素があったり、あるいは自分にはできないことをそう表現している可能性もあるでしょう。
人間って、そんなものです。たぶん。
都会から京都に通っていたので、周りからはわかりにくいところもあったのでしょう。
私は、生まれついての大阪人的な人間はありません。大阪にいると大阪の人?と訊かれてしまうくらい。
素朴という表現をされたこともありました。
職場でも、一生懸命にやっていることを誤解されたこともありました。
それは十分に泣きたくなるような、まるで自分の誇りを傷つけられるような誤解でもありました。
そういうあれこれを経て、人間は少しずつ成長してくのだと思います。
そんな中で、自分を知ってくれる人がいるというのはありがたいものです。
人知らずして恨みず
また君子ならずや
自分の行いを、すべて人が正当に評価してくれる、あるいは解釈してくれるものでもないでしょう。
また、誤解された寂しさや苦しさから、学ぶこともあるでしょう。
私は君子でもなければ、君子になれるとも思ってはいませんが、それでも、人知らずして恨みず・・・、という言葉は、いつも心で繰り返し唱えています。
それから、
小人は之を人に求む
君子は之を己に求む
も好きです。
責任を他人のせにせず、自分の中に何か改善できることはないか?
ということだと私は解釈しています。
自分の中にお過ちはなかったか、あるいは、改善点はないか?
それは環境によるものであっても、あるいは、他人のためにそういう状況になったのであっても、どこか自分ができることはないのか・・・?
私は、これを主体性の極致的な表現であると思っています。
結婚もそうです。
あの娘をもらったら、うちの家を繁栄させてくれる、と思って、その娘さんを大事にしなければ、きっと繁栄することなどないでしょう。
この娘さんを大事にしてみせる・・・、というくらいの気概が必要でしょう。
また、この人と結婚したら、しあわせにしてくれる、というのも違うと思います。
この人をどれだけしあわせにできるか?
まるで自分だけ利益があるかのような結婚を望むのは筋違いだと思います。
美しくさえしていたら、素敵な人に出会えるわけでもないでしょう。
内面の美しい人は、最終的にはモテるだろうし、外見だけで通るのは一時。
かと言って、外見をおろそかにしていいわけでもないでしょうけれど。
誰かに、何かに、どれほどしあわせにしてもらえるか?と考えるより、誰かを、どれほどしあわせにできるか?と考える方がよほど気が利いています。
そんな人間心理を、谷崎潤一郎は、『細雪』の中のお見合いのシーンで、本当に上手に描いています。
ああ、人間って、こんなものなんだな、などと考えてしまう場面です。
この心理的考察は、ほかのブログで書いてみたいと思っています。
しあわせるーむ、チェリー・ハッピーのブログも読んでみてくださいね。
ブログに書く内容は、自分なりにすみわけしているつもりですが、結構書くことの分類がイマイチ甘くなっているような気がしています。
かつて勤めた学校関係の大先輩に、いろんな論考を、あちこちで書いておられる先生がおられ、ああ、ここでは、もっとも明晰な論考を、好き勝手に、容赦なく書いておられるなあ、と思わされたり、ああ、ここでは、結構平易に誰にでもわかる表現をされているなあ、と思ったことがありました。
短歌の添削もあったり、詩人や哲学者の考えを引用しての論考であったり、心理学的であったり、私はどれもおもしろく読ませていただいていました。
比べるのも恐ろしい話ですが、すみわけできるくらいは真似してみたい、と思いながら、毎日ブログを書いています。
話題が同じでも、時と共に、その話題についての考えが変わります。
今日の話などその典型的な話かもしれません。
ふと昨日気付いたことが、今日のブログを書くきっかけになりました。
毎日が勉強だなあ・・・、と思っています。
Comments