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焼き鳥屋のお兄さん


最近、母によく焼き鳥屋さんに誘われる。

もちろんお付き合いさせていただくことにしている。

たんぱく質を上手にたくさん摂ろうとしているらしいのと、まあ、とても素敵なお兄さんがいらっしゃるのをお見掛けするのを楽しみにしているらしい。


母といると、まあ、年齢の若い男性に目が行くのか、あの人可愛い・・・、とよく言っている。

上品で、賢そうで、ハンサムで、感じが良くて・・・。

その仕事ぶりにも嬉しくなるのではないかな?と思っている。


どこかに出掛けたくなるのだろう。

私には仕事があるので、母は、どうも仕事がしたくて仕方がないらしい。

羨ましく思ってくれているのは、とっても光栄である。

生徒さんや保護者の方々がいてくださるので、毎年、新しい出会いがあるし、年数を長く指導させていただいている生徒さんと、その保護者の方だと、当然に、深いお付き合いにもなって来て、その人間性を味わったり、いろいろ教えてもらえたり、私は新たな発見や喜びと出会うことが多い。

自分は自分の仕事しか知らないので、職業が違えば、自分の視野の狭さも教えてもらえる。

面談をしながら、こういう視点もあるんだなあ、と思わされることもある。


そんな私を見ていて、母は、よく働きたいという思いを語る。

幸いにして、になるのか、あるいは、そうでない方が頑張れるのかはわからないけれど、母がゆっくり楽しんで暮らしていけるように、母の選択肢が広がるようにと父が心掛けていたようで、母には何かの心配をする必要はない。

ずっとバタバタ生きてきた私からすると、まあ、ゆっくりするのもね・・・、と言ってしまいそうになる面もあるが、母は、卒業してからの数年の、バリバリ働いていた頃をよく楽しそうに話すだけあって、仕事をする、ということに憧れを持っているようである。思い出話も、恋愛などというよりも、仕事で活躍していたことなどの方が、楽しそうである。

場所は本町、大阪の御堂筋。東京で言ったら丸の内に当たる、そんな場所の、結構大きな商社に勤めていて、結構な倍率を潜り抜けたらしい。そんなところで、一時期、上司が亡くなったとかで、いきなり事情通の母が、その上司の代わりに、電話をいくつも受けて、なんでも母に聞いてもらえていたことが、どうも充実して楽しい日々の象徴のようである。

先日は、今からでも働きたい、足腰がもう少し良かったら、○○の仕事にでも行きたい、と言い出して、あら、そこまでのお気持ち・・・、とある種の向上心と意欲に感心した。

だからか、私に、あれこれしたいことを語るし、母の年齢にして生き急いでいるように感じることまである。


私の方が幾分のんびりしているし、教員にもならず、その仕事がそこまで楽しいと感じることがなかったら、主婦業を楽しんでも生活できるタイプかもしれない。

そういえば、大学時代の同級生や、恩師も、私を何とかいい人に嫁に行かそうと目論んでいた人が多かった。

どうも仕事と結びつけて考える気もなかったようで。

でも、職場の先輩は、私から仕事を取ったらどうすんねん!?という反応をされる人が多く、どうすればいいのよ!状態で、自分の気持ちと向き合ったことなどあったのかどうか?

ただ、もう、学ぶことが好きなので、そして、その学んだことを誰かに伝えたいし、そのことから役立ちたいので、教育の世界で、死ぬまで頑張りたいな、と思っている。

最近は、あれこれお菓子作りやお料理作りの話をしているし、水曜日には材料が届くので、アシスタントにして、私にとっては初挑戦のお菓子を作りたいな、と思っている。

まずは何かさせてあげないと、この人は退屈するな、ということはわかっているので。(笑)


話は戻る。

母のお気に入りの焼き鳥屋さんは、実は、私が、どうしようもなくて、いきなり一人で入ったことで知ったお店だった。

正直、その辺りに車を預けて、その作業が結構長時間で、その間に食事を摂りたくて、でも、ラーメン屋さんくらいしか知らなくて、そして見つけたお店だった。

お食事できますか?という問いに、メニューを見せてもらったら、焼き鳥丼があり、それをいただいて、時間を潰させてもらった、というのがいきさつである。

家族や同僚と行くのは、決まってあるチェーンのお店で、専門のお店に出会ったのは初めてである。


それで私が気に入ってしまったので、母を連れて行ったのが母がお気に入りになるきっかけであった。

母は、お店にうるさい。

母は、自分が決めたある基準で、大丈夫、と思えたお店にしか行けない。

この人の、食に対するこだわりと制限に困っていた私は、自ら自分の殻を割るのに大変な思いをした。


大学時代、男子が圧倒的に多かったし、部活を通していくお店に、そんなこぎれいなお店はなかったから(学部の男子だと、素敵なカフェに連れて行ってくれる人もいた。そこは京都。)、そのノリに付き合わなければ、着いていけなかった。

働いてからは、学園アパートなどにお呼ばれに行ったりしていたから、誰かが作ったお料理を食べることはできない、などとは言っていられなかった。

母の価値観から脱却する努力はあれこれあった。


教員をしていて、そんなにかっちりなんでもできるわけがない。

いい加減な部分を作らないと、仕事が回らなくなる。

何より大事なのは、生徒の指導。

高校時代の担任の先生の、実務面でのおおらかさに、母とびっくりしたことがあったけれど、そのおおらかさは、そのうち経験と共に自分にも身に着いたものになった。

やっていけないのである。そういう職業だと思う。