意外に強さの秘訣は悩むことかもしれないということ。
それなりの年齢になってきた最近、思うことがある。
普段大きな声を出して、あれこれ言っている人よりも、普段は穏やかで静かな人の方が怖いのではないか?ということ。それから、結構しょっちゅう悩んでいて弱そうに見えている人の方がいい意味で臆病で、もしかしたらいつも蛮勇を発揮しているイケイケの人よりも強かったりするのかなあということである。
一つ一つのことから逃げないで、しっかり考えて前に進むことを続けている人は、いざというときに耐性ができていて、意外に折れない。
まるで清少納言の『枕草子』のなかの「野分のまたの日」のように、台風によって大木は倒れているのに、低木やか弱いと思われる草木が平気であるのが不思議といったように、もしかしたら強そうに思えるものはそれなりに弱さをはらんでいて、弱そうに見えるものこそもしかしたら強さをはらんでいるのかもしれない。
しょっちゅうあれこれ言っている人に、ちょっと気になって言い返してみたら意外にあっさり引いてしまわれるということもよくある。
なんだか老子の考え方の影響かもしれないようなことだけれど。
実は昨日、あるお店で、どうってことないことを迷惑そうにしている人がいたので、私は
あ、すみません・・・。
と言った。そしたら余計に不満そうな態度だったので、私はめずらしく意図的に?というか意識的にちょっと不快な気持ちを表した。そしたら、その人は逃げた。
そういうものなのだと思う。
この人になら言える・・・、みたいなことを外見から判断して(たいていそういう人は見る目がない。言いたいだけ。)、自分の不機嫌さをまき散らす。それが通らないとわかったときの、そのやめ方が、私は逆に嫌だと思う。
大抵そういうことには巻き込まれないようにするのだけれど、昨日は、どうしてか、これは良くないな、と思った。
最近、強い、と思っていた人の弱さに直面した。
ああ、本質的にこの人弱いんだな、と実感した。
そんなこと言えるほど自分が強いかどうかはわからないし、その人に何が起こっているのかもしっかりとはわからない。
けど、今までの発言を聞いていたら、結構人のことを上手に冷静に見ておられて、それこそ一家言ありげにアドバイスもされていた。その判断を正しいと思うか思わないかは受け止める側の問題である。
でも、自分が見誤っていたのかもしれない、ということと共に、もしかしたら、本質的に弱い人なのかな、と思ったのである。
いや誰しも人は弱さをはらんでいる。
誰かの悩みを聞いては、自分に起こったことなら相当にあれこれ思うくせに、人に起こったことなら、偉そうに、
それくらいで悩まないの。
とか、
人はそんなこと考えない。
とかコメントするが、その実考えることから逃げてきて、そして考えてしっかり生きてきた人間ができることもできないで、
強いと言えるだろうか?
かつての同僚が私の知らないところで、悪い人はそういうことを悩まない、真面目な人だから悩むんだ、と言っていたらしい。
その言っていた人こそ、相当に強そうに見えて、裏では繊細で、人知れず思いのあったことは感じていた。
でも、悩むことはよくないことでも弱いことでもない。事実を直視し、きちんと対するという点では私は相当に強いあり方なのだと思う。
人のために、人を相手にする仕事で、悩めなくなったら終わりだと常々思ってきた。
悩むことは苦しい。
今の認めることなどできない。
今は今の完成形であっても進歩し続けるには悩み続けなくてはならない。
どんなことも現状に満足していたら、進歩はない。ときはいつでも進んでいる。
棺桶に入るその日まで、進歩し続けて、日々あれこれとしっかりと悩んでいたい。
まだまだ。これから。
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