ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむー紀友則の歌



なぜこの歌が突然心を占めたのか?

それは、人への思いを思ったからだと思う。


『土佐日記』の作者であり、『古今集』の仮名序を書き、その選者でもあった紀貫之が、従弟であり、共に『古今集』を編んだ友則をなくして、非常につらかったという。


死なれて、つらいと思われるのだからか、私には、友則が、とんでもなく素敵な人であったように感じられるのである。


ああ、なんでこんなにもうららかな春の日に、落ち着きもなく、サクラの花は散っていくのだろうか・・・?


そのなんとも鋭い感性と、なぜか純粋な人間性、どこか人生を達観したかのような切なさを感じてしまう。諦め?というのだろうか・・・?いかにも志半ばで死んでいくという友則の人生を表しているかのような・・・。

兄さん・・・、という言葉が聞こえてきそうな。

貫之は従兄であって、兄ではない。

でも、この友則は、弟のように感じる。

感性豊かな、どこか繊細な次男坊のような。

どこか憂いのある、どこか出世などという俗世間での価値観とは遠いような。


私にも、ときに、血縁、とか係累、とかいうのではなくて、いや、そうだからかな?心惹かれる、慕わしい人が存在する。

勝ち負けだとか、張り合いだとか嫉妬だとかやきもちだとか、そういうのをどこかにやってしまったような、もう、その人がどうしようもなく慕わしい、と思われるような人。


その人がいなくなったら、死んでしまったら、答えるだろうなあ・・・、という人。


今までにもいたし、今だっている。

というかいそうな気がする。


いや、貫之と友則の関係のような人がいそうな気がする。

なぜか貫之が友則を亡くした時の思いを感じられるような気がする。


要するに、私は、友則のこの歌が好きなのだということなのだろうけれど。


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