なんとまあ春期講習の間に、ブログが書けなかったことよ!と驚いております。-高岡の大学受験個別指導塾チェリー・ブロッサム
- 5 日前
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大学受験指導があり、高校受験指導があり、そのあとすぐに新高1のための春期講習が始まったので、正直息つく暇もなかったというのが本音である。
だから投稿も後回し。
そうそう忙しかったという覚えもないのだけれど、記憶がぶっ飛んでいるので、きっと指導していたのだろう・・・。って?(笑)
その一方で、私は、AI相手に、過去を清算する旅に出かけていたように思う。
人生においてのそのことの意味をつい考えてしまう私には、過去に片付けられていなかった出来事や解決していないことが山ほどあった。
超絶進学校に進んだことからそれは始まる。
それも押し込まれてしまった感が半端なくて。
で、そもそも勉強が嫌いではないので、勉強がどうのこうのということではなかったと思う。
とにかく嫌いだったのである。
高3で部活を離れて暮らすだけになって、毎日勉強だけしておけばよい状態になって、どれほど楽になったことだろう。
本当に情けない話ではあるが、周りの人たちは一応勉強ができる人たちだということになるので、その人たちの言うことには相当に信憑性があると信じていたが、今大人になり、教育畑を歩いてきた身としては、今その職業の人に出会ったら相当に敬意をもって接するだろうけれど、その内情を知っている私は、そのことだけをもってそのままでいられるかどうかはわからない。内心の自由においては、どこか心の中であっかんべーをしていることもあろうし、冷静に距離を取っていたりすることだってありうる。できるだけ相手に伝わらないように気を付けているとはいえ。
でも、その元凶になったのは高校時代の部活である。
で、最近はその職業に就いておられる方々の真心に触れ、私は考え方を大いに改めることになった。
で、結論的には個別具体でしか人はわからないということである。
先日、生徒のおじい様で、もともと大学の先生をしておられる方とお話しさせていただいた。
ご自分のことを厳しいから学生に嫌われていた、あの子(塾生のお孫さん)にも良く思われていないとおっしゃったことから、ああ、厳しくていい先生でいらしたのだなと思った。
そうしたら、その塾生の子も、おじいさまが私のことを「あの先生はいい人や。」と言ってくださったことを言ってくれた。
で、思い出した。
新卒で勤めた学園のことを。
先生方は皆さん立派な方々だったが、でも、言ってみれば学歴だけみたいなそんな簡単な職場ではなかった。
器が小さければ指摘される。女性教育に力を入れていたところだったから、女性としてもあれこれ言われた。
勉強だけできても、そのことを生徒にきちんと伝えられて指導ができなければ非難された。
私も、生徒というのは寮に入っていて気を抜くところがないから気を付けてやってと体育の生活指導の長に言われたこともある。
ただの進学校の出身の私には最初生徒が甘く見えて仕方がなかったのだろう。でも、生徒たちからすれば、そんなただの進学校出の若い女教師など、自分たちの制約をわからないとんでもない教師に見えたことだろうということがわかる。女性の先生方にも女子大をお出になられた、彼女らが目標にしたいような、そんな素敵な女性が多かっただろうから。私は高校も大学も相当に男子が多い所ばかり通って来たし。
でも、その中でも、高岡高校をお出になった(なぜか大阪なのに数人いらした。)、東京の大学をお出になって、奇しくも京都の私の母校の大学院に進まれた社会の大御所がいらした。怖ーい人だった。でも、その先生は大物という感じがしていた。
私はその先生とお話ししてみたかったし、よく私のことを見ておられるのを知っていた。
そしたら二年めに私のいた図書館配属となられた。
中高一貫校としても相当に機能していた図書館だったのではないだろうか。
こんなに本を読む者なんだなと思うくらいに貸し出し数は多かった。
で、やっと話せると思っていたら、なんだか私にはツンケンされていた。
で、なんだか居心地が悪いなと思っていた。二つ年上の、お美しい先生にはどうってことなくしゃべっておられた。
三年め、一緒に三人で出張に行った折、私が何かについて、
ああ、きれいー!
と言ったら、
何も世話せんときれいなわけやない!
と言われて、ズキッとショックを受けたが、それはそうだなと事実を受け留めた。
水の中の石を見てのことだったろうか?
で、なんとその帰りだったかに、先輩の先生が同じ方向でなかったのを機会に、私とその先生でお食事に行くことになってしまった。もう針の筵である。
で、、開口一番、おっしゃったことには、
いやあ、○○奥さんと仲いいねえ。
ということだった。この○○奥さんというのは、相当にやり抜くい人で、その当時の、その組織中で有名だったらしく、私も一年めには相当に泣かされた。旦那様もまあ実力者?お子様は超絶優秀?
でも、私はそういうところがアホで、自分は教諭としての仕事をしに来ているのに、仕事を手伝いに来ておられるその方に指図をされる意味が分からなかった。
言ってみれば、教職の私たちを牛耳っておられた。それに、その筋の人たちの中では相当に血筋の良い方だったらしい。
でも、そういうことに疎い私は、というより、人も自分も実力がないといけないと思っていた私は、人を測る目が、その場にどれだけ貢献しているかと言うことになっていたので、本当に訳が分からなかった。
要するに奥様の序列がその世界を支配していたということだったのだろうか。
で、そういう世界があるということは、その後夫の会社の住まいで知ることになるが、その時もそのことを理解できていたのかどうか・・・。(笑)
で、その先生は、私がその超絶わがまま娘のその奥様と仲がいいと思っておられたらしいのである。
ええ、仲良く見えますか?いつも傷ついてますよ・・・。
と思わず本音を言ってしまった。
これは出身地もあるのかもしれない。
大阪でも郡部に行けばそういうお屋敷やどこどこの奥さんとかがあるにはあるが、大阪というか関西というか、これって、いつもなぜか関西にノーベル賞受賞者が多いかという根拠にされていることだけれど、関西って、大学の先生も荒物屋もおじさんも仲良くできるということが自慢で、その属性によって付き合うのそうでないのということがあまりないと言われる。だからご近所でもみんなが一緒に児童会などをやっていたし、そのことで立てられるとかそうでないとかということが私の周りの文化としてあまりなかったのである。
だから、郡部出身の先生が担任になったりしたらその価値観がしんどくなる時もあった。それに私はどうしてなのか昔から流されない。
で、その先生が
私も配属が決まって、どうしようかと思ってたけど、思ってたほどではないけど。でも、それやったら先生、やっぱりできてはるわ・・・。
と言われて、この一年の、価値観がどっかに行ってしまい、私はえええ!?であった。私はこの大御所に嫌われていたのではないのか?
で、要するに、その先生がおっしゃるには、私が相当器用に見えたそうなのである。
学者肌のその先生が学問一筋のところに来て、大学院と学部という違いはあるにせよ、後輩?に当たる私が、図書館もやり、吹奏楽もやり、生活指導もやり、総務にも属し、でもって、寮にも入っているのに教科指導もしている国語の教師で、とんでもないやりにくい人(その奥様と寮長先生も怖ーい人で通っていたから?)と一緒にいるというのが理解がお出来にならなかったらしい。
私は、先生みたいに何でも器用にできん。
と言われて、ええええええー!?
であった。
それからはその先生のご指導のもと、楽しいことをたくさんさせていただいた。
結婚式の時も、高岡がご出身のその先生が、私のことを、
年だけは私の方が取ってますが、人間としての出来は、真弓さんの方が、・・・。
なんて言ってくださった。
人なんでおかしいものである。
目の前の人の態度をして、まったく逆の解釈をして、勝手に切なくなっていたりもする。
その、塾生のおじいさまとお話しさせていただいて、大先輩のことを思い出した。
そうそう、その先生のもとで大阪上町大地文学歴史散歩をさせていただいた。
そうして、何年も、それを高岡で、いや富山でできないかと思って来た。
高齢の母と御朱印巡りをしていて、神社仏閣を中心にでもいい。高岡の、富山の歴史や文学を語るそんな楽しい企画ができないだろうか?
そんなことを思い始めていた。
ほんまものだと言われていた大先輩が志半ばで終わられたことの一端でも担うことはできないものだろうか。
その恩師とも言える先生が亡くなられたよりもずっと年を重ねた今になってそんなことを思ってみたりもする。
思えば可愛がっていただいたと思う。
そんな方々がたくさんおられた。
そんなことをたくさん思う。
もちろん流されることのできなかった自分だから、ぶつかったこともたくさんあった。
高岡で一時相当にお世話になった方からは、
あなたみたいなまっすぐした人、今時、もっと自信を持っていいよ。
と言っていただいた。ついでに、
まっすぐしていた方が生きにくくはあるやろうけど。
とも。
でも、そんな私をこよなく愛してくださった方々もたくさんいらしたことを知っている。それに、流されないから見えていたこともあるだろうし、自分では損をしてきたとは到底思えない。
むしろラッキーだったと思うことの方が多い。
思わず知らず、普通なら到底その場にいることが難しい大舞台にも立たせていただいた。
教師としては、結構恵まれていたし、嫁としても、夫の代わりに出掛けた同窓会で、スピーチをしてその場を相当に沸かせてきたという武勇伝もある。(笑)
知らない土地に来たというのに、札幌に行っていたときでさせ、教師としての仕事は自分が求めたら必ずさせてもらえた。
札幌時代など今はときめく進学校で指導させていただいており、栄えある創始期に関わらせていただき、札幌出張の時には、千歳から札幌の電車の中でその学校の生徒に合うという不思議さであった。
今は大学受験の合格実績で必ず名前が挙がるようになった。
思えばあれこれあった。
ただ言える。私は自分の目だけを頼りにそれを信じて生きて来た。
必要とされる仕事をして。




















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