ちょっと寂しい私。ー大学編入試験指導が終わって・・・。
今ごろはもう試験が終わっているだろう。
受験生とそのご家族は今日中に高岡に戻られる予定である。
大学の編入試験のために旅立った生徒さんのことである。
この三か月、本当に楽しかった。
日本語と英語を駆使して、如何に内容を伝えるか?ということを必死で取り組んでいた。
おかげで自分の持ち味や特性も深く理解させてもらったし、新たな分野の本も読むようになった。
今年に入ってから結構すごいスピードで本を読んでいる。
隙間時間に一冊アッという間に読む。
以前はちょっと一人でご飯を食べに行ったり、カフェに行きさえすれば、その時間を使って、サラッと一冊読んできたものだった。
それが近年、どうも動画からの情報に頼っていたように思われていたが、計測してみればそうでもなく、結構な頻度で本を読んでいる。
どうも最近、喜びが少なくていけない。
なんでも長く経験すると、できることが増えるので、一つ一つの物事に対しての喜びが薄くなっているようで困る。
数年前、私はある人に相談した。
以前のように指導するのにも必死で予習しなければならないことも少なくなって、退屈なんです。
同じ仕事をしていることになりますか?
訊かれた人は、何言うてんねん?という顔をして、
うん・・・。
と応えておられた。
何にも答えになっていなかった。
だって、誰に何を言われようが、喜びが薄くなっていたのだから。
思えばインプットが少なくなっていたのではないだろうか?
仕事と言えば生徒さんのため。
でも、いい仕事をするためにはいつも自分の内面の充実が必要である。
だから本を読んだり映画を観たり、いい音楽を聴かなくちゃ!
というわけで、最近は、久しく読めていたなかった文学書をよく読んでいる。
なんだかここ数年は、社会学や哲学、経営学やビジネス書などに偏っていたように思う。
今年は加えて人工知能についての本を読むようになった。
ああ、すごいな。この分野。
とはいえ、私の専門である国語とはちょっと相いれない世界でいてほしいとも思う。
それにしても日本語は深い。
今回英語に取り組んでみて、意外に英語の深さに驚いた。
アメリカが研究において素晴らしい成果を挙げている理由もなんとなくであるが理解できた。
ただ、時にアーサー・ウェイリーの日本の文学作品を読んでから原典を読むとまた違った視点で物語を読むことが可能なように、一度英語になった文章を日本語にしたり、あるいは日本語になったものを読むのは楽しい。
久しぶりに、時に予習の必要な指導だった。
良い表現を求めて、辞書と首っ引きになっていたこともあった。
ただ、英語表現の正しさを求めて辞書を引くことはあっても、日本語のニュアンスを求めて辞書を引くことが少なくなったくらいには、日本語に対する自分の感覚は信じている。
大好きな新潮の国語辞典。
何冊潰してしまったことだろう。
高校教諭時代から使い込み、最初は現代語と古語とが一緒になったものを使っていた。それも2冊をぼろぼろになるまで使い込みガムテープで貼って、なんとか使っていて、現代語だけのを持ち歩くようになり、新しいのを見つけては購入し、子どもたちにもそれぞれに買ってやり、教室にもボロボロになったものが2冊ある。
大変にお世話になってきたものだ。
いつも本屋さんに並んだら、すぐに購入していた。すぐになくなるのである。
今も絶版状態だろう。
古本でも相当な値段がする。
とても買うことができない。今ある教室のを何とか死ぬまでもたせなければならない。(笑)
辞書というのは大事である。
新潮のを使い込んでいると、ほかの辞書がひどく素直な表現に思われると共に、どこか物足りなく感じることもある。
いろんな意見があり、私とは真逆の意見の人もいらっしゃるようだけれど、私はこの辞書でおそらく一生日本語と付き合っていくことになるだろう。
Yorumlar