せめてブログは、という思いと祈り。

なんとかブログだけは書いていたいと思うのですが、とうとう夏期講習に突入してしまいました。
昨年は、もう指導に懸ける、とばかりにお休みさせていただいていたのですが、私は私なりの使命があると思っているので、とにかく書きたいとは思っています。
読者がいらっしゃることはわかっているので、なんとか書いていきたいのです。
それも有限不実行になるかもしれませんが・・・。
伝えたいことはたくさんあるのですが、そうして、ときに本音を書くことができない、ということもあるにはあるのですが、お役に立つことならば、なんとか書きたいと思っています。
楽しみに読んでくださる方がいらっしゃるのだから。
昨年も、先生のブログを読んだりして、心を落ち着けていました、とおっしゃっている親御さんもいらっいました。
指導や面談ではお伝えしきれないところを何とか、お伝えしていきたいと思っています。
そんな日々の中で、タイトルや話題(これは書いているうちに勝手に発展して今うことも多いのですが。)を決めるとき、ときに祈るような気持ちのときがあります。
何について書けばいいのかわからないときには、ふと、自分より高い次元にある何かに訊ねるような気持ちで折ります。
それは、古文や漢文で言うところの紙かも転かもしれませんが、私は現代文的に、造物主という言葉が好きです。
信仰や宗教というよりは、何かこの世の法則性、造物主の働きがあるように思えてならないのです。
つい、その法則性を読み解こうとしてしまう自分がいますが、それよりも、その造物主の自分に与える課題も変わってくることでしょうから、単なる法則性だけを追い求めるのは、ちょっと違うかな?と思います。
ただ、京セラの創業者でもあり、現名誉会長である、稲盛和夫さんがおっしゃっているように、清らかな心の人は、そうでない人が躊躇してしまうようなことも、たやすくやってしまう、というような(これはジェームズ・アレンの言葉の引用だったかと思いますが。)ことはあると思います。
純真なまごころだからこそできることもあるだろうと思います。
純真なまごころにはまったく及びもつきませんが、せめても、その日に書くタイトルや内容くらいは、誰かに訊ねるような気持ちでいてもいいと思うのです。
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