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ある種の葛藤。


私なりに、根拠があって、そして、意味もあってしたことで、かなり努力もしてきた一年だった。

いい加減に決断していることなどないし、考えなく行動することもあまりない。


でも、ちょっとばかりすべてを否定されているような気がする言葉のように感じられることがあって、しばらく納得できなかった。

もっと言うなら、これだけ努力して、なんでそこまで言われなければならないのか?

と思った。


めずらしく時間が掛かった。

自分の心を調えるのに・・・。


それでも、いつも助けてくれるのは指導である。

生徒の前で、先生の顔をしなければならないとき、私は、本当に救われるのである。


目の前に文章がある。

目の前に数式がある。

そうして生徒がいてくれる。


私を頼りにしてくれる生徒たちを守り抜いたつもりの一年だった。

確かに、どんなに努力しても、追っつかないことがある。

誠実であろうと努力しても、どこか抜けてしまうこともある。


でも、それは、人間性の問題じゃない。


でも、人間性の問題にしていたのは、むしろ自分だなあ、と気付いた。

違う。

客観的に、誰が見ても大丈夫、という状態を作れてはいないことを、指摘されただけだった。


大学時代、ものすごく忙しい中で、徹夜で、レポートを書いたって、基準に達していなければ、単位はもらえないものだ。

頑張ったんです。

他にも一生懸命にすることがあって、手を抜くことはできなかったんです、と言っても、それは言い訳にもならない。


どうすればいいのか?ということをあちこちに教えてもらった。


ただ、言いようもある。

疑わしくないことまで疑われたら、例えば出席している授業に出ていたなかったのではないか?と言われたら、誰だって、悲しくなる。

でも、そんな感情論は置いておいて、私はいつものように、いただくところだけいただく。

自分が勉強する分野を見つけただけ。

大丈夫。

来年は、しっかりやろう。


今から始めようと思っていることがある。


それに、そのおかげで、私は潔く決断したことがある。

サッサと決めてしまった。

決断することには、周りも、私の判断が、合ってるかもしれないし・・・、とも言ってくれていた。


先生筋の人の教えのように、私は指導するときの服装まで、こだわっていた。

最近はかなりいい加減だけれど。

ゼミの先生にも、服装については、やかましく言われていた。

一つの買い物も、いつもだいたい指導がその前にある。

また、食事を作るのも、素材に気をつけるのも、睡眠の質を上げるのも。すべては指導のため。


さっき、「泥臭い努力をする人ですね。」と表現してくださった方がいらしたけれど、そのことを一番見抜いているのも母である。

最近では目の前にいる生徒も、私のコツコツした努力を見てくれている。

一見器用に見えるらしい。

でも、ほんと、私のほとんどは泥臭い努力で成り立っている。(笑)


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