「哲学カフェ」に参加して・・・。
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昨日、私は、朝の授業と夕方からの授業の間、指導と指導の合間に、「哲学カフェ」に参加してきた。
実は、面談や新入塾の生徒さんに対応しながら、自分の生き方などを模索していた私は、母の付き添いで行った美容室の片隅で、フランクルを読んで泣いてしまい、その後、ずいぶんフランクルにのめっていたら、「あ、そうだ!今度の『哲学カフェ』はカントの『永遠平和のために』だわ!」と思い出し、あああ・・・、となり、慌てて書棚から『永遠平和のために』を取り出し、いつでも読めるようにスタンバイ状態、だったが、字が小さいことと、あれこれ対応しなければならないことが重なって、そうそう読めずにいた。
当日になって、粗々読み出す始末。
読んでおいた方がいい参考資料も、午前中に印刷。
何とも不真面目な生徒である。
準備がお粗末なまま、参加した。
でも、高校2年のときに、倫理社会で教えていただいたけれど、しっかりとは理解できていなかった、カントが、ずいぶんわかりやすいものとなった。
今までは、読んでもとってもよくわかる、というようなものではなかったけれど、前提となる考え方の枠組みを教えていただいたので、ああ、なるほど・・・、となった。
書棚を整理をしてたので(これは定期的にやらないと、とんでもないことになる。)、大好きな『老子』の本を取り出してきた。
ども哲学・思想関係に読書が傾いて来ている。
先日お亡くなりになった、元京都セラミック名誉会長稲盛和夫さんのご著書も愛読書である。
どうも純粋な文学作品を読む機会が減った。
最近はむしろ近現代の作品より、古典文学を読む方は、楽しいというか、しっくりくるようなところがある。
友人とときに、あの作品が面白かった、あの作品がどうの・・・、と話したりする。
学生時代とは違い、単純に作品を楽しんでいる。
大学時代は、作品論ばかりやっていたので、純粋に味わうというより、どこか評価の対象だった文学作品が、今の年代だと、好きだとか嫌いだとかで語ることもできる。
書棚を整理していると、自分自身の好みがわかってくる。
この本の多さだけはなんとかせねば・・・、と思っているけれど、一冊も捨てる気などさらさらなく、昨日は、如何に、kinndle版が便利か・・・?という話も出ていた。
実は書き込みできる方が、絶対頭に入りやすいのではあるけれど、だから紙の本があらまほしいのではあるけれど、そうはいってもスペースと老眼が進行するのとには抗いがたく、少しずつkinndle版が活躍してくれ出しているのは事実である。
学生時代、教職教養の先生が、ワープロで打った原稿だけが、自分でなかなか見つけられない、つまりは手書きが頭にも気持ちにも残りやすいということをおっしゃっていて、私も賛成だし、納得している。
活字にしても、すぐに替えることのできるテキストの原典はどれ?という問題にもつながる。
手書きほど自分に残るものはない。
手紙などはその最たるものだろう。
あまり気持ちを乗せない方が良いな、と思ったときには、ワードで文章を書く。
想いのある相手にはやはり手書きになるだろう。
思いを敢えて出してはいけない相手には、それこそ、敢えて、ワードで手紙を書くかもしれない。
かつて日本の手紙は、一種の芸術作品だった。
和紙の選び方、その和紙からの香り、筆跡、歌の当意即妙さ、文章の巧みさ・・・。
私もその時代に生まれたかった、という面がないわけでもない。
ただ、この情報量の多い世の中で生きているというのも、所与のものであるので、それを私は楽しむことにしよう。
ただ、誰かに贈り物をするとき、誰かに手紙を書くとき、どこかで、日本文化の薫りのするものを選んでいるのも事実で、私は、この情報渦巻く時代に生きていながら、ひとときの間を大事にしたい。
間ーこれこそが日本文化の大事にしている者だと思うから・・・
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